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●#12(2004.1.10)● ハピネス

初めての六本木ヒルズで、森美術館を訪れた。エレベーターから降りて展望台に向かう人たちから別れ、美術館へ向かうエスカレーターの空間から「ハピネス」は始まっている。四方の壁を占める両性具有的な写真。そして、彼(彼女)の住む天上へ続くかのような、中心にそびえる梯子もまたアートの一つだ。古今東西からhappinessという軸だけで集められたアートたちは、比較的ゆったりと展示され、入口の大きい写真から、出口近くに何の注釈もなく展示されているオノ・ヨーコの小さなカードまで、思っていたよりもかなり楽しめた。中でもモネの「睡蓮」は、わたしの好きな絵の一つだったから、その原画をしばらくの間眺めることができて嬉しかった。流れるような白い光、たゆたう緑色や紫の線、そして、暗く深い水底から現われ出た奇跡の睡蓮が輝いている。自然の力強さと静かさ、美しい時間の結晶と二人きり。ハピネス。
その「睡蓮」をはじめとして、いくつか心に残った作品があった。タイトルは忘れてしまったが、銀色のワイアーを輪にしたものがあった。細いワイアーを束ねたものをねじっていて、つなぎ目はちょっと見ただけではわからない。ほぼ円形のそれを見た時、「ウロボロスの蛇」を思い出した。自分の尾を食べる蛇。でもよく見るとその作品は蛇の頭も尻尾もなく、ただの円だった。どんなにたどっても終わることがない円。けれども限りある円。「質量保存の法則」次の世代へ遺伝子を引継ぎ、子供が大きくなるにつれて短くなっていく自分の時間、正しいというより当たり前とされる前提が円の形をとってそこにあった。ただしそれは人間としての前提だ、と少々皮肉気味にわたしは思う。人間の円と自然の円は絡み合いながら少しずれた位置にあって、自然のエネルギーは人間にただ吸い取られていく。逆はありえない。質量保存の法則。かくして人間は地球上にうじゃうじゃとはびこることになり、バベルの塔を六本木に建てた。なんてね。
こんなことを考えるのは読んでいる小説のせいかもしれなかった。「死者の体温」大石圭。他人が生きていて自分もまた生きている、そして自分だけの未来がどこかに待っている。そんな一切を感じられない主人公が繰り返す殺人の話。「かけがえのない自分」なんて信じていない心の片隅が、その途切れないワイアーを見た時、少し震えたような気がした。
美術館からの帰り道、少し遠い駅で降りた。大きな公園を通って、20分ほど歩いて帰るつもりだった。途中、ドトール(実はスタバのコーヒーとかより好きだったり…)に寄ってけっこう美味しいチーズケーキを食べコーヒーを飲みながら、ちょっとだけのつもりだったのについ「死者の体温」を読み終えてしまった。大石圭の小説を読んだ後、いつも訪れる虚脱感と後味の悪さを感じながら(なのに何故読んでしまうのか)、夕暮れのせまった外に出た。公園に続く広い歩道橋に、女の子とその両親らしき人が3人で空を見上げていた。「フェイジー・ラ」女の子が言った。見上げると、あかね空の方角から雲が一直線に伸びていた。作っていく白い線を、フェイジー自身は気づいていない。ただ、地上にいるわたしたちだけが、彼の飛んでいく姿と残していく雲を見つめている。存在というのはそういうことなんだろうか。A-HAの「テイク・オン・ミー」を流しながら公園を丸く走っている自転車に追い越されて、わたしはちょっぴり可笑しくなった。案外、そういうことでいいのかもしれないね。ハピネス。

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●#11(2001.9.16)● Imagine

「攻撃の開始はそのまま判断の停止でもある。」
ある作家がそう言った。わたしはその言葉に全面的に同意する。
公私を問わず、攻撃はひとつの結論であり、押し付けだ。結論の決まっている者同士の話し合いが論争のための論争であり、はなから認め合うことなどありえないように、そこにはただ、The Endしかない。
物事の一面しか見られなくなったら、そりゃ強いだろう。迷わないことはそのまま(無知という)強さにつながるから。物事を多面的に見てしまう者は、決定が遅くなる。それは同時に弱点となり、負けることになるのだろう。でも、迷うことがそのまま排除につながるような社会は、とても生きづらいんじゃないかと思う。

最近あるラジオ曲が、ジョン・レノンの「Imagine」を毎日流している。
ジョンの声が優しく“想像してごらん。世界がひとつであると”と歌っている。選曲した人は、平和を願っているのだろう。対岸の火事として切に祈っている。自分も含めて、他人の身になるっていうのはほんとに難しいことだから。
けれど、今この歌詞は、危ない側面を持っている。
「世界はひとつ」現実として、それはあり得ないことなのだ。国籍、言語、文化、歴史、人種、宗教、年齢…この星には全然違うバックグラウンドを持った生き物が溢れかえっている。どうしてかは知らないが、とにかくボーダーがはっきりしないぐらいに密集している。
「世界はひとつ」アーティストはたぶん、そのあまりにも多い違いを分かったうえで、「ひとつ」になることはとても難しいと知ったうえで、この曲を書いた。今、その理念は、ねじ曲げられ、違う解釈をされそうになっている。
「世界はひとつ」よろしい、ひとつでないならば、ひとつにしようじゃないか。どんなことをしてでも。
…というように。
世界はひとつではないし、ひとつにはなり得ない。「善」と「悪」で世界が割り切れるものならば、魔女裁判やキリシタン狩りの世界に逆戻りだ。
政治的なスローガンになってしまった「Imagine」は聴きたくない。
テロリズムで争いは終わらない。戦争で平和は決してやってこない。ただ一国とその周辺だけの平和ならありえるだろうけど。そんなんでいいの?

自分といえば、ドタバタしていていつものように優先順位を間違ってばかりいる。いつも半分で遠くのことばかり考えているから。テロ行為そのものも、これから何が起きてもおかしくない(しかも、何が起きるか分からない)ということも、とってもとっても恐ろしい。だから足元すらおぼつかないで、最近ちょっと疲れているんだ。
そんな中でも、そんな中だから、わたしはいつか、詩を書こう。
イメージする。
あらゆる個人的な創造行為と、その完成までの「選ぶ」という道すじだけが、理性の抵抗となり得るはずだと思うから。

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●#10(2001.6.5)● すばらしい孤独

結局みんな、自分の信じたいことしか信じないんだね。それが世界を小さくつまらないものにしているとしても。
クール?客観的?どっから見ても明白な正解?美しき数学の定義じゃあるまいし、人がいろんなものと関係を持つ中で、そんなもんは存在しない。
相対する限り、真実はめまぐるしく変わる。時には単なる事実さえ越えて変質させてしまう。情報操作はマスコミだけでなく自分の心の中でも常に起きているからだ。
ネット上であればその速さは何倍にもなる。意識していなければ、他者の意識(時には意志)に、あっという間に呑み込まれる。誰のせいでもない、自分のせいだ。

今から7年ほど前、ある冒険家を知った。彼は北極点に一人で到達しようとしていて、その資金集めのためにTシャツを売っていた。
白地にスカイブルーで「北磁極」と染め抜かれたシャツは、今この瞬間(2001.6.3 18:17)わたしの膝の上にあって、触れている肌がほんのり暖かい。
河野兵市氏、彼は個人旅行者の間ではけっこう有名人だった。リヤカー1台引っ張っている彼を、サハラ砂漠のあちこちで何人かの旅行者たちが出会っていて、その話を聞くことができた。わたし自身会ったことはなかったが、そのTシャツ購入がきっかけで毎年年賀状を交換するようになった。
彼の字はちょっと判読不可能な時がある程パワフルで柔らかく、いつも太いペン先の万年筆で書かれていた。その字は北極点到達前も後も変わりなく、年賀状のやり取りは続いた。
河野さんとそうやって交流しているおかげで、時々、「ほんとうの孤独」について考えるようになった。

彼はたった一人で氷上を走る。大きな氷の割れ目を避けて大回りする。いつも空の様子を伺い、激しいブリザードの予兆があると、もくもくとテントを準備する。外気に触れている部分は凍ると同時に紫外線に炙られる。白い世界に風の音だけが通り過ぎる。辺りには誰もいない。
けれど、彼は知っている。一人ぼっちではないことを。無線は絶えずベースキャンプに通じていて、彼をバックアップしているし、そこまで到達するのに力を貸してくれた国内外の人たちが、彼のリーチング・ホームを信じて待っている。あとは、時折遠くからこちらを眺めている動物たち。彼らの領域に敬意を表しつつ通り過ぎよう。
孤独がすばらしいのは、そういうことだ。信頼する人たちと繋がりながら、一人だけの知恵や経験を使ってさまざまな問題を切り抜けてゆく。体力はもちろん、新しい出来事を純粋に楽しむ度量も必要だ。
きちんと孤独になることは難しい。空っぽな人は、何かに寄りかからないと立つことも出来ないから。彼は自然と対峙していた。彼の心には北極軸があって、いつもある方向を指していた。
何度も死と隣り合わせになっても、河野さんは一人で冒険をした。犬も連れてはいなかった。たぶん彼は、他者が傷ついたり死んだりする可能性が嫌だったんだと思う。
ほんとうに優しい人は、いつも孤独なんだと思う。

河野さんの遺骨は、6月3日、故郷に到着した。

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●#9(2001.4.23)● 届いてますか?

誰でもそうかもしれないが、わたしは自分の声があまり好きではない。留守番電話に録音された自分の声なんて、心底ぞっとする。他人が聞くのと違って、自分が聞く自分の声は頭蓋骨に反響した音だからなのだそうだ。そんな事実は、なんのなぐさめにもならないけど。
「お座敷ポエトリーベネフィット2001」を友人たち3人と主催し、実際にマイクを使って声を出してみた。わたしの声はどちらかというと細く、弱い。特にお酒を飲みはじめるとどんどん細く高くなっていって、ほとんど通らなくなる。ときどき居酒屋などで飲むと、声を張り上げてしゃべっているのに、喧騒にかき消されてしまって、隣りにいる人に何度も聞き返されたりする。そんな声のせいか、はたまたいまひとつ性格的に押しが弱いのか、自分には確かに話した記憶があるのに、相手からは「そんなことを聞くのは初耳だ」とこっちがムッとするぐらい強弁に言われたことが何度かある(もちろんわたしの記憶違いというのも考えられる。その場合はすみません)。
言葉というのはその場限りのもので、録音でもしない限り後に残らない。当り前だが。この「瞬間」という性質を持つ言葉が、ビート詩にはかなり重要なファクターになる。「目で読む詩」ではなく「耳で聞く詩」だからこそ、言葉を選び取るのがなかなか難しい。
4月8日「お座敷ポエ」で、オリジナルの詩を読みながら、客席からの反応を感じていた。不思議なもので、誰も一言も発していないのに、わたしには一人一人の頭の上に浮かんでいるうすぼんやりとした「?」マークが見えた。聞こえてくる詩そのものに疑問を抱かせてはいかんだろう。
「目で読む詩」は読んでいる途中でも、そこから後ろと前の文が見えるので、何度か読み返すことによってある程度伝わる。でも、「耳で聞く詩」は言い訳がきかない。厳選した言葉を使ってもっとシンプルに、もっと分かりやすく、もっと滑らかに、そしてもっと楽しまなくちゃ。自分なりに。メッセージとビートの間でバランスをとること、それが今後の課題。ワクワクするね。
自分が読んでみたうえで強く感じたのは、「佐野元春さんのSpoken Wordsってすげーよ」ということ。もう一度言うぞ。すっげーんだぞ、まじで。映画「ビートニク」公開記念のイベントに行った時、スクリーンに映し出された「Summer of 2000」の映像。後の参加者たちのどんな詩を聞いても、佐野さんの声で読まれる詩がいちばん優しくていちばん強くていちばんカッコよくて、そしていちばん伝わってきた。
ウェイストランドという雑誌で佐野さんはこう言ってる。「スポークンワーズってほんとは誰でも出来る。お金かからない。簡単なんだ。面白い遊びだよ」
はいっ。よーーーーく分かりましたっ!
ところで誰だよ、HP3ヶ月ぐらい更新しないかもなんて口走ったアホは。あたしよ♪…

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●#8(2000.11.19)● No Fear

パソコンを買ったのは3年前、最初からインターネットがしたくて購入しました。ホームページというものを作ってみたかったけれど、半年間ほどはあちこちのWebを眺めて過ごしました。とあるBBSへの初書き込み、また、チャットへの初参加はとても緊張しました。自分のハンドル名とメールアドレスだけを打ち込んでみても、結局その先に進めずに落ちてしまったことも何度もあります。知らない人と知らないまま繋がるというのが、かなりの決心を必要とした時期です。今では信じられませんが。
何年も前、わたしと友人たちが作っていたミニコミ誌「PARKS」をWeb上で再開する試みは、それからまた半年の期間を必要としました。ワープロの書式とは違う性質のものだったので、知り合った人たちにいろいろ教えてもらったり、画像を作成していただいたりして2年半前にこのホームページを立ち上げました。
日本語しかないので、World Wide Webとしては不十分かもしれませんが、自称「日本語フェチ」なわたしにはとても楽しい作業です。友人のページからのリンクを辿ってとか、gooなどの検索エンジンを使って、思いがけない方からメールをいただくこともあります。また、刺激的な意見を交換している人と実際に会ってみると、少し印象が違ってより一層親しくなることができたり、良いことばかりの平和なWeb運営をしてきました。とても運が良かったのかもしれません。
あまりに平和だったので多少平和ボケに陥っており、なんだか全ての人と分かり合えるような勘違いをしていました。けれど、ネットの世界は現実よりももっとはっきり分かる形ですれ違いや誤解が起きることがあります。一度そうなってしまったら、まず修復は不可能。信頼し合える可能性は無くなり、どんどん離れていく2本のベクトルをただ眺めているしかありません。
簡単に繋がることができるからこそ、自分がその中でいかにリアルな存在であるか、個人としてどこまで自覚できるかが問われてきます。バーチャルだからこそ、善し悪しに関係なく、何か行動を起こした後に生まれた影響がずーっと広がっていきます。わたしは時々、自分の行動によって、何かの可能性をどこかで潰しているかもしれないという怖れを抱くことがあります。もちろんその逆の、良い方向に向かう可能性もありますが、そんな際でも「自分の知らないどこか」の怖れをちょっとだけ感じてしまいます。
それは、法律やルール以前の、心の奥底から響いてくる美意識の問題です。どんな風に見られたいか、ではなく、どんな存在でありたいか。他者の存在を認めながら、自分がどれだけきちんと立てているのか。自分が過剰にならないための唯一の答え(歯止め)が、その意識です。
自分が一人だけで存在するような、もしくは現実の世界よりも力を持っているような勘違いをしやすいネット社会では、正邪、大小、美醜…など多くのことが同じ重さを持ちます。ピサの斜塔から違う重さの物体を落としても、同時に地面に到着するように。
「一人ぶんの力」それは大きくなく、かといって小さくもありません。どんな価値もバーチャルになってしまうネットの世界では、それを計る基準を持つことが難しいので、なかなか違いが分かりにくかったりします。でも、本当の価値基準をわたしたちは既に知っているのかもしれません。
「if」の怖れを自らに問いかけながら、背筋を伸ばして行こうと思います。毎日ほんとにいろんなことがあるので、いつも笑っていたり無理に明るさを装うことはできないけれど、意識の明快さは忘れたくありません。
誰かが違う考えを持っているとしてもそれは些細なこと。バックボーンやここまでの道のりがもともと違うのですから、最初の一歩から理解不可能な人もいるのは当り前だと思います。
自分と他人の考えが違うことに憂いたり、ヒエラルキーを気にしながら批判を繰り返すのではなく、むしろ、誤解したり喧嘩したりそれでも好きな人たちと出会った幸運と、現在自分がここに生きているという不思議なストーリィを、短い生涯の間だけでも楽しもうじゃないですか。泣いたり笑ったりしながら。
少なくとも、わたしはこの大きな街と小さなWebで、いろいろあがいてみるつもりです。Are you alright?

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