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2016年2月 恋と音楽FINAL~時間劇場の奇跡~ atパルコ劇場

舞台の上にはもうひとつの舞台「グッドタイムシアター」ステージ。
北沢修司(稲垣吾郎)と峰麗子(真飛聖)のミュージカルが上演されている。と、そこに「やめろやめろ!」と客席から突っ込んでくる小倉久寛さん。誰?でも、舞台の2人は小倉さんに気づいていない様子。幽霊?
修司と麗子は表向き仲が悪いふうを装っているが、実は付き合っている。楽屋でラブラブな2人。修司は今夜、麗子にプロポーズしようとしている。
そこにスタッフが時計を探しにやってくる。この劇場のシンボルの壊れた古時計らしい。
スタッフがいなくなって幕の陰でまたイチャイチャしだす修司と麗子。すると、古時計が落っこちてきて動き出す。
そこへ一郎(小倉久寛)と花子(北村岳子)が現れる。不思議なことに一郎も花子も、それぞれが修司と麗子しか知りえない事実を知っている。実はそれぞれの未来の姿らしい。
だがなぜか、プロポーズを成立させまいとする一郎と花子。2人は、自分の不幸がすべてこの夜のプロポーズにあると思っていた。
自分の未来が失敗すると知っている者たちが反対しても、修司と麗子は結ばれるべきなのだろうか。


今回の舞台は3回観劇することができました。
正直、ミュージカルは苦手です。「えっ?歌うの?踊るの?」ってなるし、おおむねストーリーの詰めが甘く単純で、セリフの裏の裏を読んだり、一つのセリフで空気がガラッと変わるような複雑な会話劇が好きな私にはちょっと物足りない……という感じです。
ミュージカルの歌詞って「表」しかないじゃん。裏の気持ちはどこに?
ストーリーを歌で説明してどこが面白いんだろう、とか。(うるさくてすまない)
この「恋と音楽」シリーズも例外ではなく、特にシリーズ最初の舞台はあまり覚えてない。自分のブログを読み返して河原さんのとこ思い出した。
http://namaste56.blog.fc2.com/blog-entry-18.html
ちなみに「恋と音楽Ⅱ」はこちら
http://namaste56.blog.fc2.com/blog-entry-2.html

今回は、劇中劇が「歌うハムレット」ということで衣装が豪華!ウェストが狭くなった裾の広がったキラキラ衣装がよくお似合いすぎて。エナメルの靴も輝いて素敵です。
あー稲垣さんシェイクスピア演ってほしい。「痴人の愛」でも可。
登場の衣装はちょっとすっとこ王子っぽいけどww
手の振りが全体的に優雅で背がピンと伸びている、去年の「No.9」での身振りを思い出した。
で!
最初のほうの楽屋シーン、こっち向いてる鏡台が枠だけなんだけど、その中からシュウ♪の目線が!私に!!真っ直ぐ!目と目が!!シュウ♪の目は明らかに焦点合ってませんけど!!www私の目はロックオン!!
真っ直ぐこっちを向いていらっしゃるシュウ♪と、横から聞こえてくる真飛さんのささやき声が刺激的でですね!真飛さんってささやき声なのによく通るんですよ。なにゆえ?
ここで吾郎さんが片足ターンするんですけど、まったく軸がぶれない。横の小倉さんが逆にぶれぶれで面白かったー。
長椅子に座る姿は「ヴィーナス・イン・ファー」を思い出すね。脚ほっそ!なっが!!

歌はどれもラブ・ソング。甘ーーーい!(古)
そうね、恋愛っていつも自分のがオリジナルだものね。第三者が見てどれだけ陳腐であったとしても、自分の恋愛が一番輝いてるし、自分の失恋で誰よりも傷ついたと思うもの。
そんなどこにでもありそうな、男女のすれ違いの物語に、小倉さんと北村さんが大人の経験でスパイスを添える。
疑い、誤解、説明不足。
それでも歌う!だからこそ踊る!
「トラブルの種は自らの中にある」
「心をこめて願えば未来は変えられる」
「どんな未来が待っていたって、僕は恐れない」
おぅ、ストレートすぎますYo!

そして未来。
貴族の黒い服(金のふちどり付)がまあよくお似合いで!
その前にピンクの貴族服もあったけど、そっちは「ゴローちゃんの服」。
黒い衣装は「稲垣様の御衣裳」といった面持ちで、出てきた瞬間客席が「ほぅ」っていうため息でさざめいた。(まじ)
夢の世界なのか現実の夢なのか、混乱しそうになりつつカーテンコール。

吾郎さんになって出てきた!
ゴローちゃんでも稲垣様でもシュウ♪でもなく、まさしく吾郎さん。
薄絹をハラッと脱いだような、吾郎さんの顔なんだけど吾郎さんじゃない、いつものSMAP吾郎さんがいました。
毎回不思議だ。
目撃した人なら同意してもらえると思うけど、終わると速やかにSMAPの吾郎さんに戻る。
ふわっ、と。

吾郎さんの好きなところを、いつもパルコ・プロデュースの舞台で気づかされる。
顔やスタイルではない、性格でもない。
いや、それらも好きだが、吾郎さんを意識するようになってから徐々に好きになってきた感じだ。
では最初に見つけたのは何か。
それは……
ふうわりとして邪魔にならない、自然で綺麗な、LOVE。
いつのまにかそこにいて、けれど決して近づきすぎないし優しすぎもしない、居心地のいい、LOVE。
雰囲気、と呼ぶには理想的すぎ、気のせい、と呼ぶには具体的にすぎる。
LOVE、を形作ったその存在。

ポエムか!
私はなるべく冷静に、批評家のように、稲垣吾郎という舞台俳優を見て痛い。違う。見ていたい。
ダメなところはダメだときちんと書きたい。
でも無理。
舞台の度にまた新しく好きになる。
キュートと男らしさは矛盾しない。強引なほどの牽引力を、彼の存在に感じる。
感受性が鈍くなっていない全ての人(男性・女性問わず)の憧れを具現化したらきっと吾郎さんになる。
ずっと観ていたいものが、この場所には存在している。

人間が炎の中に精霊を見たり、
岩に絵を描いたり、
揺れる心を詩にしたり、
そんな根源的な衝動と、
恋と、
音楽と、

稲垣吾郎さんと。


カーテンコールで、
「30年後の未来が歪んだものにならないようにがんばります」
「未来は変えられる」
そんなことをサラッと、当たり前のように、疑いもなく語る、稲垣吾郎さん。
はーーーーーー!
現実かなーーーーーーーー!?

ぜひ、ぜひ、未来の末席に座らせていただきたい。
こちとらあんまり未来の時間ありませんけど、なるべく、がんばりますから!
いつか、また!
舞台の上の吾郎さんに、恋させてください。

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2015.10「No.9-不滅の旋律-」at 赤坂ACTシアター

自発的にチケットを買って行った初めてのコンサートはクラシックだった。
地方には本格的なクラシックオーケストラなんて来ないから、県庁所在地まで電車(汽車だったかも?)で片道1時間以上かかった。中学時代、放課後の掃除をぶっちぎり、友人と2人、終電覚悟で臨んだ小澤征爾指揮のクラシックコンサート。
写真でしか観たことがなかった有名指揮者は、写真のように頭がボサボサだった。「世界的な人」が目の前で動いていることが嬉しかった。
曲はなんだったか忘れた。交響曲だったと思う。ベートーヴェンだったかもしれない。気持ちよくて途中で少しまどろんだ。
有名なフレーズが始まって目を開けると、なんかすごい光景があった。
指揮者が体全体を揺らしていて、まるでその体と指先から何層もの音が出てくるクラシック機関みたいだった。楽器の音をまとめあげ、完璧に支配して昇華させていく指揮者の姿をこの目で見て、激しく興奮した。

数十年後、同じ光景と興奮を、ひとつの舞台から受け取るとは思わなかった。

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。音楽で、社会と軍隊、自らの運命と闘い続けた男。
耳の悪い音楽家。有名な交響曲やピアノソナタを何曲も作った人。学校の音楽室に赤いマフラーを巻いた絵が飾ってある気難しそうな人。
ベートーヴェンと家族の関係とか、耳が不自由なことでコンプレックスがあったんじゃないか、なんて考えたこともなかった。
音楽室の平面から突然三次元になって、魂を持った人間が目の前に現れたら誰だっておののく。

中島かずき氏の脚本だから、もっとエンターテインメントになるのかと思っていたら違った。ミュージカルでなく、奇をてらわず、割とオーソドックスにベートーヴェンの生涯を描いている。
私は正直、言葉で頭脳を揺さぶられる脚本のほうが好きだから、もっと翻弄されたい欲求はある(今のところ脚本はVIFが最強。当社比)。ただ、実在の人物を描く時にあまり冒険はしないだろうし、この舞台に関しては当時の社会情勢と絡んで積み上げていくような言葉と感情表現がハマっていた。

ほとんどがシリアスなストーリィの中、メルツェル(メトロノーム発明者)役の片桐仁さんがすごい。ベートーヴェンの醸し出す緊張感に巻き込まれることなく、確実に笑いをとっていく。変な髪型、補聴器、コーヒー豆、いろいろ頼まれる人、ベートーヴェンと対等にケンツクする人。
ベートーヴェンが支配する長丁場の舞台で、彼が話しだすと正しいリズムに戻る気がした。強いベートーヴェンに巻き込まれない、まさにメトロノーム男。

ヒロイン・マリア役は大島優子さん。AKB48の中で一番好きだった。最初に彼女を知ったのは映画「渋谷」。インディペンデントな映画で脇役だったけれど、やけに印象的な家出娘役だったのを覚えている。その後、AKBの人だというのを知った。
最初彼女の声を聞いた時は少しうわずっているように聞こえた。言葉はきちんと出ていて、とにかく台詞を話すだけでせいいっぱいということはなかった。演じながらマリアを掴もうとしてまだちょっとうまくいかないというか、自分の理解しているマリアを出そうとして方法が少しずれている感じ。
初舞台だからだろうとは予想していたが、そこからの彼女の理解力が素晴らしかった。
マリアの役は1幕と2幕の声音が全く違う。それは女性としての成長でもあるのだが、ベートーヴェンに近づいている証拠でもある。
ラスト近く、マリアの鼓動を触媒としてベートーヴェンの苦悩を光に導くとても大事なシーンがあるが、その台詞がスケジュール初めのほうでは少し速く、息継ぎも曖昧で、大丈夫なのかと少し不安になった。
けれど、その後、千秋楽に向けてそのシーンはどんどん良くなっていった。
白井さんの指導が入ったのかもしれないが、彼女の理解力の賜物だと私は思う。
小柄な体で存在感があった。これからも舞台の上での彼女を見てみたい。

ベートーヴェン家の三兄弟。弟のカスパールとニコラウス。
ベートーヴェンお兄ちゃんも含めて、クラシカルなスーツやマントがよく似合う、スタイルが抜群な三兄弟だった。
今回の舞台は19世紀初頭のヨーロッパ。裾の長いジャケット、袖のないマント、ハイウエストのドレス…どれもこれもクラシカルで上品で豪奢な衣装が素敵だった。
それを着こなす役者さんたちも。
弟たちを演じる加藤和樹さんとJONTEさんも素晴らしいスタイルなのに、それを上回る稲垣さんの胸板と脚の細さときたら、それはもう華麗で(BGM歓喜の歌)。
ベートーヴェンの放つ絶対的な熱量があまりにも大きくて、2人の弟たちは霞んでしまいそうでしたが、大丈夫。近所の人たちは、弟たちのほうが大好きだったはずだから!「お兄さんのほうは、作る音楽は素晴らしいんだけど、ちょっとお付き合いするのは…ねえ」とか言われてたはずだから!
足下はよく見えなかったのですが、ベートーヴェンは3足ぐらい履きかえていた気がします。

ベートーヴェンの恋人・ヨゼフィーネ役は高岡早紀さん。色気があるのは知ってるが、どのぐらいだだ漏れなのか。これは確認しなければ!
結論:ベートーヴェンとヨゼフィーネの色気は拮抗! 油断ならない一流の技と技の様相に、ピンク色の濃厚な色気が客席まで飛んできた感。キスシーン何回あった? あまりにも自然でびっくりするわ!!
感じいりました。拝む。

ベートーヴェンの父親・ヨハン役は田山涼成さん。激しいコンプレックスの固まりで毒をまき散らし、ベートーヴェンの失聴の原因を作る。
有能な医者ステファン・ラヴィックとの2役は、姿勢、声音など本当に別人の演技なのだが、同じ顔をしていることでベートーヴェンと客席に混乱をもたらす。

ヴィクトル・ヴァン・ハスラー役は長谷川初範さん。最初に観た時は、この役の存在意義がよくわからなかった。初めのほうでちょっと出てきてベートーヴェンから委任状とお金を奪う詐欺師。また終わりのほうで警察に追われつつちょっと出てきて終わり?
でも、フリッツとはまた違う角度から社会を眺め生き抜く目線が必要だったのかも。内に内に向かいがちなベートーヴェンとその周辺に、明るい彼が希望をもたらした。
ベートーヴェンは理解者である彼と話す時が一番楽しそうだった。ベートーヴェンの心から、思いもよらない晴れやかな気持ちを引き出してくれたのはハスラーだったのだろう。だから最後までベートーヴェンは彼を信じ、彼もその気持ちに応えた。

ナネッテ役のマイコさんは、少し声を低くした演技。硬質な職人としてのプライドを持つピアノ職人。ピアノへの愛が強すぎて、ベートーヴェンからの求愛を厳しくはねつける。ベートーヴェンレベルの厳しい職業意識を持っているからこそ、彼に女として見られるのを嫌がり、周りにそう見られるのも拒否する。
ナネッテの夫・アンドレアス役は山中崇さん。ピアノ職人としてはヘボだが入れる紅茶は美味しい。典型的な髪結いの亭主。自分よりも周りの人を優先させる彼だからこそ、マリアが自分を捨てて、音楽しか愛せないベートーヴェンを愛し、その支えになることを示唆できる。
「一番不幸なのは、その運命に目をつぶっていることだよ」
新しい運命への道を義妹に指し示す彼は、実はこの舞台の中で一番優しくとても強い。

フリッツ役の深水さん
TENGAさんから花が届いててワロタwww「みんなエスパーだよ」繋がりね。いい体してました。理想的な軍人体型というか、しかも背が高いからマントを着た時の威圧感がたまらなくいい。フリッツは体制を具現化させてる警察官の役だから、いかつい服が似合わないと話にならない。
観劇1回目のラストで彼が、ベートーヴェンが最初に「第九プロトタイプ」を披露した酒場のことを話した。あのシーンで確かにステージ隅にフリッツいたけど、どんな様子か見てなかったよ!と思って、2回目注意して彼を見るようにしてたら台詞の意味を理解した。
あそこはフリッツにももう少し強い光当ててたほうがいいのかも。なんて素人考えです、すみません。

青年のカールと少年のカール
後に自殺未遂を起こす、ベートーヴェンの甥っ子。倒されたり振り回されたりするけっこうきつい役を、よくこなしたね少年&青年!
青年カールのラストの「はい」は千秋楽が一番良かった。伯父をやっと理解したって感じ。

ヨハンナ役の広澤さん
カスパールの妻、カールの母。ベートーヴェンから嫌われて言われ放題の普通の女性。ベートーヴェンに関わってしまったばかりに、カールと共に運命を狂わされた人。
最初のほうでマリアの前に追い出されるメイド役も演じてたよね。声が伸びやかだし、フリッツとは一瞬なんだけど勘のいいやりとりだなと思ったら、やはり2幕で大事な役が。


頑固で偏屈で自分勝手、しかも音楽の才能だけは人一倍持っている音楽家・ベートーヴェンを中心に、多くの個性的な登場人物が関わっていくストーリイなので、脚本はそれを描くだけで3時間でも手いっぱいという感じだった(ベートーヴェンを探して追いかけるシーンが2度続くのはドタバタが過ぎるのでは?)。脚本の冴えではなく、人物の強さがストーリイを引っ張っていた気がする。
この舞台で際だっていたのは白井晃氏の演出だと思う。
壁1枚、マント1着、通行人たちが歩く方向、音楽などで表される場面転換、そっとピアノの角度を変えて去っていく通行人カップル、エキストラ(という名の合唱団)が楽譜を1枚残らず拾うことで次の場面にスムーズに繋げる。など、大道具も人も利用できるものは利用する。
大劇場だからこそ際だつ奥深くまで使ったステージ構成と、両脇に鎮座したピアノ3台生演奏の迫力ときたら! ピアニストの方々は演出通りに確実な音を奏でなければならないから、かなりの緊張感があったんじゃないかと推測する。
映画の説得力が映像にあるとすれば、舞台の説得力は演出にあるのを強く感じた。
どの角度、どのシーンも一瞬一瞬がすべて絵画のようだった。

今回は3回観劇することができた。2回目は2階席の一番前だったので、演出がよく見え、音のバランスも良かった。とにかく大きな舞台の手前から奥まで使っているから、印象的な照明や演出効果を全て知ろうと思ったら最適な席だと思う。
男性のマントや、女性のドレスの裾が丸く広がるのがとても美しい。中でも一番きれいに広がっていたのがベートーヴェンで、これは2階席からしか見えない。お得。
上から見ると、舞台のすべてがベートーヴェンの頭の中という気がする。最初のシーンが無音なのは彼が難聴であること、無表情なエキストラたちの拍手がスローモーションなのは彼がその演奏に満足していないことの現れだ。

幕は上がっている。真っ暗な舞台の上には左右にピアノが計3台。それぞれにピアニストが配置されている。
大きな中央の空間にもピアノ、ソファ。奥は暗すぎて何も見えない。
と、男が弱い光に浮かび上がる。
まさか板付きだったとは。いつからそこにいたのか、音も光も最初はぼんやりとしてはっきりと輪郭が掴めない。
徐々にピントが合っていく。
いつの間にか背景に現れた人々が拍手をしている。スローモーションの動きで。
この演出は普通じゃない。
舞台の奥から前に男が歩いてきた。
(誰だ?)
よく見たら稲垣吾郎なのだが、その纏っている雰囲気が彼ではない。顔にさす光で、魔物のような強いコントラストが形づくられている。
よく似た別人がそこに立っていた。
ベートーヴェンだ。
最初の冷や汗が流れた(気がした)。
登場シーンからとにかくそこにいるのは稲垣吾郎ではなくて、異様に底光りする眼、歪んだ人間が霧の中からぬっと姿を現したように見えて、ゾッとした。何が始まるのか、期待と不安が交差する。
真っ暗な頭の中の、揺るがない核。
私はベートーヴェン個人について何も知らなかった、と、後悔を一瞬感じる。

やがてその歪んだ傲慢さは父親の影によるものだとわかる。父親からの心身への暴力にも関わらず自分(の意志)を認めてほしくて反抗しながら自己主張し、それをことごとく潰されてきた幼いベートーヴェン。
自分がまだ何者でもないうちに、大人から「お前は何もつかめない」と言われることがどれだけの呪いになるか。
おそらく父親も宮廷音楽家の夢破れ、子供を自分より大きな存在にしたくないから、自分のコンプレックスと卑劣さから目を反らし続けたんだろうけど、やられるほうはたまったもんじゃない。
それでも彼が弟たちと口喧嘩したりわがままを言いながら、なんとか社会の一員として生活し恋愛している様子は微笑ましかった。多少面倒くさくはあるが、ただ自分の感情にも意志にも嘘をつかない男として見れた。
恋人ヨゼフィーネとは何度もなかなか濃厚なキスを交わしてたし、やるなベートーヴェン、ヒューヒューだよ! 癇癪ルードヴィヒがまた可愛らしく楽しくてな。1幕までの話だけど。
同じ成り上がり者としてナポレオンに親近感を持ち、「英雄」を作るほどだったベートーヴェンだが、フランス軍がウィーンを占拠するとヨーロッパは一気に不穏になる。
1幕終わりで「第九プロトタイプ」を披露したベートーヴェンは、フランス軍兵士を合唱に巻き込むことで勝利に酔いしれるが、舞台の端にはフリッツがいる。その圧倒された表情が、私の気持ちと重なった。
音楽の力で屈服させたエネルギーは、近い将来、思いもよらない角度でベートーヴェンを襲うのではないか。

2幕に入ると、ベートーヴェンの耳は更に不調となり、周りの人間関係も崩れていく。
軽やかで、ベートーヴェンの影響など意に介してないようなインチキ臭いメルツェルさえも、荒れ狂うベートーヴェンと社会風景に巻き込まれていく。
音楽は変わらないが、政治は変わる。
メルツェルとラヴィックは、ベートーヴェンのカリスマ性からある程度無関係でいられる人たちだ。
発明という武器を持ったメルツェル、医師として(かつ父親のトラウマを引き出す幻影として)ベートーヴェンより上の立場になれるラヴィック、それぞれが社会背景について語ることで、ヨーロッパ情勢がベートーヴェンの置かれている立場、ひいては思考の道すじにどんな影響を与えているのかがわかる。

マリア、ヨゼフィーネ、ナネッテという個性の強い女性たちも印象的だった。
ヨゼフィーネとベートーヴェンのシーンはひたすら甘く愛情溢れ、彼を愛する女性としてヨゼフィーネの洞察力・理解力は際だっている。気高く色っぽく、生き残るための狡さとプライドを隠す賢さを恥としない。
ベートーヴェンを振り回しっぱなしで、借金を申し込んできたシーンではマリアと同じ「あのヨゼフィーネ!?」と叫びたくなった(笑)。それでも彼女は美しく、消滅していく貴族の大輪の華のように、どこか悲しげだ。

ヨゼフィーネが華だとしたら、ナネッテは樹木だろうか。ピアノを作る彼女は、いつしかその材料に似てきたのかもしれない。一人で努力し、技術を磨き上げ、自己を決して手放さない。
すげなくベートーヴェンを振るけれど、逆に彼女は傷ついていた。彼の理解者として、彼の音楽を実現できる者として、一番近くにいると思っていたから。本当はベートーヴェンをヨゼフィーネとは別のやり方で愛していたような気もする。けれどそれ以上に、性別でなく実力という太い根で彼の傍に立っているのだというプライドが傷ついた。
彼女はピアノ職人としての意識が強すぎて、周りにいる人が自分を支えていることに気づいていないのかもしれない(そこもベートーヴェンに似ている)。
それでも、ベートーヴェンの楽曲と同じく、その生命を終えてもシュタイン製ピアノは後世まで残っていく。

この舞台では、ベートーヴェンの生涯と社会がダイナミックに絡み合う時に交響曲が使われているが、その心情を描く時はピアノソナタ『月光』や『悲愴』が効果的に使われている。
ナネッテの妹のマリア、ベートーヴェンの母親と同じ名を持つ彼女は、1幕と2幕で最も成長を見せる人物だ。1幕で少女らしい無鉄砲さと好奇心でためらわずに行動する彼女は2幕にいない。
わがままで傲慢な彼を正面から理解しようとしてハネつけられ、やり方を変えて代理人になることでやっと受け入れられる。
2幕では2人のやり取りがほぼ筆談(を読む台詞)で進んでいくが、スケジュール帳としての手帳、筆談するための手帳を持つことで彼女はやっと彼の傍に立つことができる。時にベートーヴェンの喉元に突きつけられる手帳は、どうしようもなく離れられない彼女の苛烈な思いのようだ。

諦めを含み、自我を飲みこみ、ベートーヴェンの代理人として生きると決意するシーンは特に印象的だった。
ガウン姿に赤いマフラーを巻いてペンを持ち、こちらを睨みつけているベートーヴェン、あの音楽室の絵と同じ格好をした彼が、マリアにも拒絶された(自業自得)ことで癇癪を爆発させる。
テーブルや椅子、あらゆる身の回りの物を投げつけて壊すいきおいの暴れるシーンが見る度に長く激しくなっていて、その直前の台詞「みんないなくなる。それでいい」からずっとどうしようもなく苦しいままそれを見ていた。今でもその台詞の声音と光景を思い出して心が締め付けられそうになる。
ベートーヴェンはたぶん、自分の頭の中の音楽を通してしか社会や人々と交流する術を知らない。彼はまるで溺れた人間が空気を求めるように、切実に楽譜を求めていた。
戻ってきたマリアが差し出した譜面が、闇の中の彼にとって小さな光だったように、私にとっても救いに感じた。
ヨゼフィーネも立てなかった場所、隣に立って同じ方向を向く役割をやっとマリアは手にすることになる。恋人の甘やかな直感ではなく、音を作る同士として対等なのでもなく、理解できないベートーヴェンの傍に立ち続けるというのは、荒れ狂う闇の穴をその縁から覗き続けるようなものだと思う。しかもその穴は才能に溢れやけに魅力的なのだ。

もうひとつ、ベートーヴェンがマリアに素直な心情を吐露したシーンがある。
客を陶酔させるだけの駄作『ウェリントンの勝利』の演奏会を何度も企画したのに金払いの悪いメルツェルへの不信感、ヨゼフィーネからの借金申し込みと、面倒くさい人たちに疲れたベートーヴェンがマリアに言う。
「ピアノはいいな。弾けば必ず音がする。(中略)人間は難しいな」
この声音が寂しそうで、でも少しだけ面白がってもいるようで。ああこの人は激情を止められないだけで、自分なりの優しさもユーモアも持っている人なのだ(1幕での、弟たちの言うことをしぶしぶ聞くキュートなベートーヴェンを思い出す)。
周りの者を傷つけずにはいられないベートーヴェンが、他方では助けずにいられない理由のすべて。「私がルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンだからだ!」うわあ面倒くせえ。
マリアだけがその言葉を引き出し、そのまま受け入れる。代理人として。
理解できない相手と同じ方向を向くような、そんな愛もあるだろう。

やがて、ヨゼフィーネもナネッテも、弟たちも去り、引き取った甥とは心の距離が果てしなく遠い。
心を閉ざしたベートーヴェンの目はマリアの手元(筆談のメモ帳)しか見ていない。
思い通りにならない体に荒れるベートーヴェン。愛国という名の権力に目覚めたフリッツが彼の自己嫌悪に追い打ちをかけ、(成り行きとはいえ)超然と孤独でいるふうを保っていた自尊心を砕く。
小さなマリアが大きなベートーヴェンの感情の奔流を全て受け止められるはずもなく、ただ傍にいることしかできない。
彼を理解してしまったら、彼と同じく狂ってしまうから。大波が、浮かぶ小舟に助けを求めるような頼りない光景。

甥カールもベートーヴェンの大波に溺れそうになっている。
父と自分の歪んだ関係を、自分と甥がそのままなぞっているとは気づいていない。音楽という輝かしい自分の分身を、甥に転写させることが愛情だと信じている。
思い通りにならない者へ怒りを爆発させるベートーヴェンは、他者を自分に同化させようとすることでしか愛情を表現できない。
暴力の連鎖に唯一違う点は、マリアだ。ベートーヴェンは母の存在についてほとんど口にしていない。父親とこじれた原因のひとつとして紹介されているだけだ。
マリアはカールの扱いについてベートーヴェンに意見し、カールにとっては彼女の存在が唯一のより所となる。
が、マリアはベートーヴェンの悪い部分を知っていても、彼の作る音楽の素晴らしさがわかってしまうから、一生彼には勝てない。

甥っ子の自殺未遂が、唯一残っていたベートーヴェンの希望を打ち砕く。
他人の言葉に耳を貸さず、音楽で全てを屈服させてきた男、しかも人一倍家族や知人への思い(執着や呪縛といってもいい)が強いけれどプライドが高すぎて素直に出せない面倒くさい男は、自分自身の感情で自家中毒を起こしている。ここから少しずつシーンや台詞に矛盾が出て混乱が深まる。
2階席から見た時に、直感的にこのステージが「ベートーヴェンの頭の具現化」と感じたのは間違っていなかった。
ベートーヴェンが音を無くし、周りには闇しかなくなり、孤独の先で完全に一人になる。膝を折った絶望の中でさまようベートーヴェンの目はよどんでいて、いまにも意識や理性を手放しそうだ。(客席からはそこまで見えないのに、そう感じる。これが舞台俳優の凄みなんだと思う)
マリアだけが彼を抱きしめ、静かな鼓動が彼の耳に届く。これたぶん骨伝導! 抱きしめるだけでなく、頭をくっ付けないと伝わらない。孤独の代表みたいな宇宙飛行士同士が、ヘルメットをくっ付けて話すやつ!
だって最初から彼のところに人が訪れてたじゃないか。頭の中にノックしてたじゃないか。ベートーヴェンがどこかに出かけるシーンよりも、いろんな人がやって来るシーンのほうが多かった。彼は邪魔に思っていたかもしれないが、ずっと前から愛されていた。

主観の歪みから解かれ、正しく周りが見えるようになる。自分も相手も一人の人間であり、他人を同一視したり、強制したりするのは間違っている。
世界と繋がるために有効な方法は既に手の中にあった。とてつもなく効果的で美しい、音楽という手段が。
ここからのベートーヴェンの悟りは、まさしく「物に名前がある」と理解して「ウォーター」と初めて言葉にするヘレン・ケラーのようだった。もうこのベートーヴェンは唯一無二、稲垣吾郎にしかできない。違う人が演じれば、違うベートーヴェン、違う『No.9-不滅の旋律-』になるのだろう。
遠くから響いてくる民衆の歌声。
音楽によって苦悩し、音楽によって救われる。それもまた、音楽に愛されたベートーヴェンだからこそ、高らかに祝福されるのだ。
神は作曲をしない。強く求めた才能ある者だけが、音楽の神からの贈り物を受け取り、創造する。
冒頭の、無音の牢獄で迷い、ひねくれていたベートーヴェンが力強く生まれ変わる。自信に満ちて指揮する背中が、あの時の小澤征爾氏に重なった。
彼の頭の中だけで鳴っていたはずの音楽は、ベートーヴェンの体全体から迸り、楽器、演奏者、歌手、そして更に観客に広がる。
舞台上での拍手はそのままカーテンコールに繋がり、あなたは私、私はあなた。幸せなクラインの壷の中でいつまでも『交響曲第9番』が響きあって止まらない。
最高の演出に、最高の俳優たちに、最高の音楽に、最高の舞台に、空間が熱い祝福に包まれる。
この幸福感を何と呼べばいいのか。
人間が奏でる人生という名の交響曲がここにあった。

この曲が年末に演奏される訳がやっと分かった。
私の1年は、この曲にふさわしいものになっているか。納得できないものになっていないか。
ふさわしくてもふさわしくなくても、この1年をとにもかくにも生き抜いた祝福と、来年に向けた決意を。
心から大好きだ。ベートーヴェンも『第九』も。

苦悩を突き抜け歓喜に至れ。
まるでこの役が運命であったかのように、稲垣吾郎はベートーヴェンにしか見えなかった。カーテンコールの一瞬にしか、稲垣吾郎はいなかった。(前髪を触る仕草で、あ、今戻った、と分かる)
だから、この感想にも彼の演技についてあまり書けなくなってしまった。
完璧にベートーヴェンに支配されていた。
生きて、この舞台俳優に出会えて良かった。何度もそう思えることが嬉しい。


シナリオ単行本が出ています。
No.9不滅の旋律 (K.Nakashima Selection)

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「恋と音楽Ⅱ~僕と彼女はマネージャー~」2014年6月26日(夜)パルコ劇場

※あまり舞台レポになってません。

まさかの最前列で、いつもの舞台とは少し違う感じに包まれている。
前の週、観劇好きな友人が亡くなって、もし何事もなければ去年の「ヴィーナス・イン・ファー」も今回の舞台も一緒に観ていたはずだ。
この世界のどこを探してもいないことがまだ少し信じられないし、なんとなく、一緒にこの場に来ているような気がしている。

たぶん、物の見方/捉えかたが全く歪んでない人はいないんじゃないかと思ってる。みんな、一つずつ自分だけのレンズを持っていて、そこから世界を把握している。
歪んでいるから、何かに引っかかったり躓いたりする。歪みがひどければ、とんでもなく間違った結論を導いてしまうこともある。
でも、時折、誰かのレンズと自分のレンズが重なって、世界が輝くことがある。
そんな人はとても大事で、かけがえのない存在だ。
一緒にいる時間は、誰も見たことのない空間と同じ意味になった。一緒にいると、いつも新しい光に溢れていて全く飽きることがない。違う感性を持ち、好奇心はいっぱいで、ところどころ適当に受け流し、好きなこと嫌いなこと変なこと、何でも全部言い合えるし笑いあえる。
彼女は私にとってかけがえのない相手だった。

頭の中は亡くなった彼女のことでいっぱいで、それなのに舞台の楽しみもあって、自分の気持ちが混乱してる。
ちょっと落ち着かないタイミングで観劇することになった。


仕事に飽き飽きして疲れている男2人(真壁と横山)と女1人(君子)、ミュージカルスクールで出会った友人たちは、やがて卒業して離れていく。
が、十数年後、横山は舞台演出家のタマゴ、真壁は大物俳優の新米マネージャーとして再会し、更に大物女優のベテランマネージャーとなっていた君子とも出会う。
再会を喜んだのもつかの間、3人は大物俳優と大物女優との狭間で右往左往することになる……。


結論としては、超楽しかった!!
生演奏とともに吾郎さんが登場した時にグレースーツだったので、「あ、舞祭組ゴローさんだ」と笑いそうになり、そこから最後まで、舞台にぐっと引き込まれて意識を逸らす暇もなかった。
最前列って全体が見渡せない。役者さんを1人見ていると他の人が見えなくなる。
あ、唾とんだ。汗かいてる。ウィングチップの靴かっこいい。手の血管萌え。爪の先まで見事なお手入れ。足首ほそっ!てか脚ほそっ!同じように細くても男女の脚の形ってやっぱり違うのねえ(ため息)。足音がする度に、ほんとにそこに存在しているんだと実感。
観てる側もとても忙しい。口開いてた。
そしてとんでもなく楽しい。

前回の「恋と音楽」でも共演した真飛聖さんと吾郎さんの息はピッタリ。恋といってもビター、かつ夢見る少年少女のような部分もある「大人たち」だった。
相島一之さんは芸達者で、話を繋いだり進めたりする。生演奏のバンドマンの方々とセッションするハープの腕前がすばらしかった。
小林隆さんの姿勢と声とスマートさに惚れ惚れし、北村岳子さんの歌に圧倒された。北村さんて元劇団四季で現役ミュージカル女優の方なんですね。圧倒的です。
北村さんと吾郎さんのソファのシーン、実はあのソファ真ん前の席だったんですが「当たる、当たる」って(笑)。濃厚なのにイヤらしくない。
吾郎さんの風のような清涼感が舞台のすべてを自然にまとめあげていた。歌の腕前については他の俳優さんたちと比べると一段下なんだけど、意外に強引な存在感とオーラのマジックで全てを包み込む。誰も真似できない。
今回は席が近かったぶん、何度かちょっとクラクラしました。

舞台を観ながら、夢が叶うかどうかで行動するんじゃなくて、本気で夢みることそのものが素敵なんじゃないかと思えた。
夢を見続けるモチベーションを保つって大変。仕事は疲れるし日常は油断ならないし人間関係面倒だし時間もお金もどんどん減っていくし……ああもう夢なんてどうでもいい!なんて気持ちにもなる。
実際、亡くなった彼女と一緒に見られない世界なんて爆発してしまえと思わないでもない。
基本クソつまらんこの世界で、彼女のような素敵な変人(彼女は私をそう呼ぶが)と出会えて、お互いに大事な個性だと実感できた日々は確かにあった。
奇跡だったのかもしれない。

今夜の奇跡は、舞台上で速やかにカーテンコールに入る際の、吾郎さんのドヤ顔炸裂!!
こんな近くで!!!
面白すぎる!!!!!(えっ?)
明らかにそこにいるのは真壁(役名)じゃない。速やかに稲垣吾郎に戻ってる。
「カーテンコールで、他の役者さんは役から自分に戻るんだけど、吾郎ちゃんだけは役からSMAPの稲垣吾郎ちゃんに戻るんだね」
同行者の言葉だ。
吾郎ファンじゃない人って、時々ファンが思いもつかない言葉でキッチリ言い当ててくれる。
亡くなった友人は「舞台俳優だよ、吾郎さんは。SMAPやテレビドラマはちょっと出稼ぎしてる感じ」と言ってた。SMAPもですか。けっこうメイン活動ですけども(笑)。
彼女は続けて「でも鏡恭一くんは最高だった」と言って鏡くんの真似(最後の手錠ジャラジャラ)して、私に「バカにしてんのか!」と怒られる、までが1ネタ(笑)。

吾郎さんのドヤ顔にはいつも本気で笑ってしまうんだけども、今回も本当に本気で爆笑した。一番前で(笑)。
この舞台が始まる前は悲しみでいっぱいだった私の心を、華やかさと楽しさで溢れかえらせた舞台俳優・稲垣吾郎。やはりただ者ではない。
ミュージカルゴロー、好きだーー!!
ただ、ストーリイとしてはもっと七面倒くさくていろいろ考えさせられる舞台のほうが好みなので、「広島に原爆を落とす日」「象」「泣き虫なまいき石川啄木」「ヴィーナス・イン・ファー」系も忘れないでいただけると嬉しい限り。
帰り道、友人が生きてたらきっとこんな表情でこんなことを言うんだろうなあって、ありありと三次元で想像できたので、たぶん一緒に観てたんだと思う。
また憑いてきて、私の目を使ってくれていいんだぜ。
むしろそれによって感謝が伝えられたら本望。
寂しくて寂しくて心の穴が埋まらないので。
占い師?に「あなたは生まれ変わらない」と言われたらしいけど、それならそれで、原子になって飛んできてくれ。
あの日、プラネタリウムで一緒に見たプログラムみたいに、分解されて原子になって、宇宙を一周してからここまで飛んできてほしい。瞳の中に取り入れるから。
この世界で出会ってくれて、もったいなくもありがとう。

ララ バイバイバイ♪

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「ヴィーナス・イン・ファー」atシアターコクーン(2013年6月)

「ヴィーナス・イン・ファー」atシアターコクーン(2013年6月)



主演:稲垣吾郎・中越典子



事前の情報をなるべく入れずに初日を迎えた。
今回は一週間毎に3回の観劇。3列目→4列目→6列目。座席運がこんなに良かったためしはないよ。舞台の神は私に何を見せようとしているのか、ドキドキ。
特に1回目始まる前の客席の緊張は鋭かった。ピーンと張りつめて、誰もしゃべれない。息も浅くなり、自分の鼓動だけが聞こえるような静寂が会場を包んでいた。
パルコの舞台とか、音楽から入る緩やかな空気感に慣れていただけに、期待と不安だけでなく、これだけ鋭い緊張が支配する舞台というのは見たことなかったかもしれない。



マゾッホ作「毛皮を着たヴィーナス」の上演のため、トーマス(稲垣)は女優のオーディションをしているが、気に入る女優が見つからない。
そこに売れない女優ヴァンダ(中越)が遅れてやってくる。ひたすら言い訳を述べる現代っ子のヴァンダだが、脚本の読み合わせでは非凡な才能を示す。
トーマスは、饒舌で奔放で、時に知的な顔を見せる謎の女ヴァンダに次第に魅了されていく。



大きな雷の音が轟き、幕が開く。
舞台には電話で女優が見つからないと愚痴っている稲垣。アメリカ人の設定なので、いささかオーバーアクション気味。
ここから私が口を開けっ放しの90分余りが始まるわけだが、いつ、どこからそんなに自分の頭が入り込んだか、終わってもよくわからない。
最初、大きな音にドキッとした時にはもう待ったなしでこの舞台に魅入られていたのかもしれない。
まるで、ヴィーナスのように。
主演の2人がまあ美しいこと、魅力的なこと、生き生きしていること。
はあぁ、いったいなにごとですかあぁっ!(どうした)



落ち着きましょう。(ぜえぜえ)
トーマス/クジエムスキー:知性、説明、分析、現実、自尊心、野心、劣等感、差別…
ヴァンダ/ドゥナーエフ:情熱、気まぐれ、感応、嘘、自信、平等、知識、混沌…
(きっともっといろいろある)
彼ら二つのベクトルに、SとMというもう二つのベクトルが加わり、混乱に拍車をかける。
将来を期待される劇作家トーマス、そのちょっぴり鼻持ちならない言葉や表情が、俳優たちや女性を一段見下していることを示す。
つまりスノッブ。しかもそれに気づかず、むしろ自分をフェミニストだとすら思っている。
劇作家としてのやる気と情熱は人一倍あるが、自分の才能にちょっぴり自信がない。だからこそ非凡に見られたい普通の男。
彼の前で自由奔放な振る舞いを見せるヴァンダは、彼にとってたかが無名女優の一人。侮っている。
だがひとたびドゥナーエフの台詞を語るやいなや、完全にその場に君臨する。完全な支配者となる。
まるでDNAに刷り込まれているかのようにドゥナーエフを完璧に演じておきながら、ヴァンダのこの舞台に対する解釈はトーマスのそれと真っ向から対立する。
対立し、拮抗し、説得し、ののしり合い、命令し、拒否し、一部認め合いながら相手を貶め、自分を晒し、それでも執着し、惹かれていく。



相手を知りたいという欲望は、容易に「相手に自分を知ってほしい、認めてほしい」という受け身の願望にとって変わる。
「生活といううすのろ」を契約条件として差し出さないとするならば、何が二人を繋ぐのか。絶対条件はどこにあるのか。
それが、舞台であり、SMであり、エロティシズムというものなのかも。
支配はいつも動じない側にあり、被支配はいつも迷う側にある。だが、被支配がなければ支配は生まれない。だから支配側はあれこれ手練手管を労する。被支配者が被支配の状態を受け入れるまで、翻弄し混乱させ、時には自身が支配される側のようなふりをし、どんな嘘をつこうとも誇り高い支配者は汚れない。
むしろ汚れることで被支配者を更なる深みへつき落としてみせる。そこに理由などないのかもしれない。ただの真理。
映画「es」は実際に行われた実験をもとにしている。被験者を「看守」と「囚人」に分けると、看守役はより看守らしく、囚人役はより囚人らしくなろうとする。
私たちが思っているよりも、役割というのは意識の中で重要な要素なのだと思う。

「私、ここに来たことがあったかしら」
本当の名前を知られることは「呪」となり人を呪縛する。ヴァンダはトーマスの名前を知っているが、ヴァンダの本当の名前は誰も知らない。本当の過去も、目的も、本当の気持ちも、謎のまま。
ヴァンダはトーマスの演出家、脚本家、ステイシーのフィアンセ、そして男、としての基盤を大きく揺るがし、ヴァンダ(ヴィーナス)にとってのトーマスの役割をこっぴどく叩き込む。
それでもトーマスはヴァンダをひたすら求めることになるのだろう。
芸術と美の女神、ヴィーナス、ミューズ、アメノウズメ、サラスヴァティ、アフロディーテ、弁財天…どんなに名前が変わろうと、一度でも至高の美に支配されてしまったアーティストたちは、必死に彼女たちを求めることになるのだろう。
それがどんなに危険な、命を削るような行為であっても抗えない。
なぜなら、偽りのショールを脱ぎ捨て、本物の毛皮を着たヴィーナスが自分に近づいてくる。女神の存在をトーマスは知ってしまったのだから。



それにしても、主演の二人が本当に素晴らしすぎた。
トーマスがヴァンダの衣装のジッパーを2回引き上げる。1回目はいやいやながら事務的に、2回目は彼女を封じるように。
トーマスがヴァンダの両足から靴を脱がせ、かわりにロングブーツを履かせる。片方は残ったひとかけらの礼儀に戸惑い、片方は欲望を込めるように。
ヴァンダがトーマスの頬を叩く。1回目は叩くふり、2回目は烙印を心に穿つかのように。
確かにそこにいてしゃべって動いているのに、稲垣の伸びた指や何かを語る視線、中越の引き締まったウェストと太股の神のごとき比率や、くるくる変わる2人の関係性に、こちらが「支配」されていた。
もっとあなた方を見せてください。
もっともっと声を聞かせてください。
もっと、支配してください。
間違いなく、私たちは舞台上のヴィーナスたちに、支配されていた。
幸せに、逃れることなど思いつかないほどに。







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毛皮を着たヴィーナス (河出文庫)

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「桜、ふたたびの加奈子」(2013・日本)

「桜、ふたたびの加奈子」(2013・日本)



http://sakura-kanako.jp/



(ネタバレ注意)



新津きよみの原作が思い切り地味だったので、ドラマならともかく映画?と少し不安になってました。偶然が重なりすぎるとリアリティなくすしね。
結果、ストーリィの改良によって、不安が裏切られた感じで良かった。映画のほうが私は好きです。
母親の子供に対する愛情のドラマという側面と、ミステリーという側面の割合がちょうどいい。
ただ、佐内河内守氏の音楽は単独で完成しているので、ちょっとちぐはぐな気がしたシーンも幾つかありました。
佐内河内氏の音楽はよく考えて使用しないと、映画という器のほうが壊れちゃうんじゃないかとハラハラしたり。
要不要が評価別れそうなラストについては、私はいいと思いました。だって、ちょっと気になったシーンではあったけど、まさかあの伏線がこう繋がるとは思わなかったもの。
構成うまいなー。
主となるストーリーの後ろで伏線が動いていき、気にもとめてなかった小さな小さな伏線で締める。
栗村監督は、人間の矛盾した気持ちや、日常のこだわり(食事とか花鳥風月とか)、死への悼みを大事にしてる人なのかもしれないと思った。



容子(広末)と信樹(稲垣)は、一人娘の加奈子と共に緑多い足利市で暮らしている。
小学校入学式の日、娘は交通事故で命を落とす。母親は娘の死を受け入れられず、失意ののちに自殺未遂を起こす。その後、容子は目に見えない加奈子が戻ってきたと言い、食事を用意するようになる。とまどう信樹。
ある夜、容子は何かに導かれるように正美(福田)という女子高校生と出会う。正美は妊娠していた。
正美の出産した女の子が、加奈子の生まれ変わりだと信じる容子。容子の思いは日ましに強くなり、正美の子を養子にしたいと言い出す。



お葬式の棺桶が運び出されるシーンで始まるが、棺を運ぶ人数が4人と少ない。つまり小さな棺で、参列者に小さな子供もいるので、亡くなったのが幼子だと分かる。
人が亡くなるのはいつも突然で、後悔するのもいつも通り。天災とか事故とか介護の末とか関係なく、いつも突然。
それでも、記憶はいつも分岐点とを行ったり来たり。あの時ああすれば、もっとああしていれば、と後悔してばかり。誰かのせいにできれば楽なのに、気持ちがそれを許さない。
ソファに横になったままの容子、死亡届の字が乱れてなかなか書けない信樹。自分たちの外を流れていく、以前と同じ日常。
自分の心が空になる喪失感を抱えているのに、毎日が同じように流れていくことが、私は一番つらかった。
何故、私以外の人はいつも通りに暮らしていけるのだろう。まるで一枚の薄い膜を隔てたように、他人の存在がふわふわと希薄で、たよりない。
引き裂かれ、取り残される。
桜に慰められるのは、蕾が膨らんで咲いて散る変化の様子が、日常とはかけ離れているからかもしれない。散りゆくことで、また来年の開花を予感させるからかもしれない。



栗村監督のハッキリした映像と、繰り返し挟み込まれる川の流れ、知恵の輪の鈍い輝き、道ばたの花、静かなのに優しく、よくあるものなのに少し息苦しい。
「弱く見える人ほど本当は強い」
そうかもしれない。
広末さんがまさにそういう母親の役を演じていて震えた。日常に良く似た異世界を覗いた者だけが持つ、凄みと怖さ、もう一歩踏み込んだら鬼にもなろうかという美しさ。
対する稲垣の、戸惑いの混じった優しさもまた素晴らしい。妻がオカシなことを口にし始めた時に、見守る決断ができるほど強い男というのはどれだけいるんだろう。
原作では離婚してたけど、そっちのほうがリアルなんだろうなと思った。



生きている(生きのびてしまった)者は、死者にただ謝りたいのかもしれない。一言、「ごめんね、さよなら」と。
きっとそうだ。
咲き誇り、散っていく桜に向けて。
自分もいつかきっと、死者の列に連なるのだと。
そしてまた、日常に帰っていく自分を見守ってほしいと願う。





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