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華竜の宮 上・下」上田早夕里

「華竜の宮 上・下」上田早夕里(ハヤカワ文庫)



(ネタバレ注意)







読み終えてしばし茫然としている。久しぶりにすごいスケールのSFを読んだ。
「日本沈没」と比較されそうな話だけど、パニック中の人間ドラマじゃないんだよ。過去のパニックと未来に予測されるパニックの間、人間の精神力と交渉力、個人と個人の知性の闘いの話。
肉体や軍隊の切ったはったではなくて、ほとんどがネゴシエーションの描写というSFを読んだのは初めてだわ。しかも全く飽きなかった。



上巻の前半は割と平和かと思ったら、しばしば出てくるグロい描写。しつこくないところがかえって記憶に残る。
海底隆起により、海面が260mも上昇した世界。DNA操作で海に適合した海上民と、科学を押し進めた陸上民が、微妙な均衡をもって暮らしている。
海上民と陸上民の間を取り持つ外交官・青澄と、自由で聡明な海上民のオサの一人・ツキソメとの交渉戦が中心となって描かれる。
そこに大国(というより連邦みたいな)の思惑や科学者の正義、更に地球規模の危機予測が絡み合い、翻弄されながら必死で自分の仕事をやり遂げようとする2人。
外交って情報とねばり強さが鍵なんだな。
話の流れによっては結果よりも相手の言葉の裏を読む能力が必要だったり、やんわりと拒否しながら相手の希望との妥協点を探ったり、自分をある程度さらけ出しつつ相手の感情を揺さぶったり、相手の出方を見ながら鮮やかに新しいアイデアを提示したり。そんな丁々発止のせめぎあい。すごい。
たぶん、世界中で紛争調停をしている人たちもこういう難しいことをやってるんだろうなと思うと胸が熱くなる。



青澄とツキソメの間を繋ぐ信頼と知性で、全ての困難を越えていけるのではないかと読者に期待させるちょうどそのあたりで、リーとタイフォン(陸上民と海上民を繋ぐもう一つの希望、兄弟)の悲劇が起きる。
この兄弟の立場がまた微妙で、一つ間違えると海上民と陸上民双方から恨まれる。たとえ自分が誤解されても拷問(これまたえげつない)を受けても人類や種族に対する正義を貫くという清廉さが、生やさしい小説でないことを思い出させる。



地球存亡の危機に対してすら損得勘定にこだわり、一つになれない人類。
311を彷彿とさせるシーンがいくつかあるが、この小説がそれ以前に書かれたことに驚く。
「周囲が敵だらけでも、たったひとりの味方すらいなくても、自分がこの世に一種類しかいない生物だとしても--。ただひたすらに生き抜き、決して孤立を恐れるな」野性の獣舟のように。
「私は、勇敢で賢明で力の強い人間であるよりも、恐怖と痛みに怯え、だからこそ、他人のそれを自分のことのように感じ、それを取り除くために全力を傾ける人間でありたい」誠実な文明人として。



地球規模の災厄に、ふたつの価値観はどこまで通じるのか。



脆く美しい地球と、科学の力で地と海に繁栄する人類。
人工知能の清らかさと、野性生物の力強さ。
魅力的な対比を絡ませながら、驚きのラストまで一気読み…したかったけど、もったいなくて一呼吸置いた。



この小説の続編「深紅の碑文」が今年末ぐらいに発刊されるらしい。今からゾクゾクして待っている。



以下大ざっぱに。
陸上民側が人工知能を使った「攻殻機動隊」風(タチコマ含む)。
海上民側が「エヴァンゲリオン」の制御不能っぷり。グロ系はおもにこっち。
そこに、「ゴーショーグン」のメカは友達理論(なんだそれは)と「終戦のローレライ」の海中戦闘エッセンスもちょっぴりぶっこむ。←更に雑www
あと、DNA操作された様々な人類の形にはいちいち驚かされました。まるで、諸星大二郎のマンガのように。
つまり、私の好きなSFものがギューッと詰まった喜びに、うち震えながら読んでいたのでした。



きっとこれ映画になるね。
実写化したらCGとか大変そうだから、アニメ化のほうがまだ楽なのかな。
でも、もし実写化だったら青澄は稲垣吾郎さんに演じてほしい。経験と知性と勇気、そこに決定的な弱みを持ってるなんてピッタリじゃないの!!!
マキ(人工知能)は松田翔太さんとか。
想像すると楽しい楽しい♪





華竜の宮(上) (ハヤカワ文庫JA)華竜の宮(上) (ハヤカワ文庫JA)
価格:¥ 777(税込)
発売日:2012-11-09





華竜の宮(下) (ハヤカワ文庫JA)華竜の宮(下) (ハヤカワ文庫JA)
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「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」

「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか 低体温症と事故の教訓」羽根田治・飯田肇・金田正樹・山本正嘉(ヤマケイ文庫)



昨年、万里の長城ツアーで日本人の遭難死亡事故があった。ニュースでの「低体温症」「アミューズトラベル」というどこかで聞いたような言葉が引っかかり、調べてみたらこの本に行き当たった。
4人の著者がそれぞれ、生存者へのインタビューに基づく遭難の概要、気象条件、低体温症、運動生理学をデータと共に説明、その上で今回のケースとツアー登山の問題点を整理し、問題提起と登山の注意点を記載している。
専門的な難しい言葉も平易な表現にしてあって分かりやすく、クールなようでいて、4人の著者の文章は熱い。
山を愛し、登山を愛するからこそ、二度とこのような事故は起きてほしくないし、起こってはならないのだという決意が伝わってくる。



2009年7月16日、大雪山系トムラウシ山でツアー客18人のうち8人が低体温症で死亡するという、夏山登山史上最悪の遭難事故。
低体温症という言葉は聞いたことがあったが、夏でも起きるということに驚いた記憶がある。夏山でも実は毎年犠牲者が出ているそうだ。
当時の報道では、夏山の油断からくる装備の甘さが指摘されていたが、著者の調査では、それほど装備に不足のある参加者はいなかったようだ。
持ち物の中に入っていても、着用できなかった。
もしくは、着用しようという判断ができなかった。
食べ物でエネルギーを補給することを思いつかなかった。
携帯電話を持っていたにも関わらず、通じる場所で救助を要請する判断が遅れた。
判断能力の低下、低体温症の恐ろしさはそこにある。
寒くなった時に体が震える理由は、筋肉を無理矢理動かして体温を上げ、内臓や脳に温かい血液を供給しようとするのだという。
だが、風と雨で急激に体温が奪われた場合、震えることすらできずに内臓と脳の温度が下がり、気づかないうちに思考レベルが落ちる。体は思い通りに動かなくなる。
「ある時点から忍び寄るように低体温症が進行する」と書かれているが、恐ろしいことだ。



低体温症はガイドも襲う。
3人のガイドうち、リーダーで添乗員も兼ねていた人は亡くなった。生き残った2人のうち1人がインタビューに答えている。
その内容には、自己保身にも聞こえる部分がいくつかあったが、だからこそリアルに響く。インタビューを受けたことに、彼の勇気と責任感を感じた。
旅行会社とガイドのいびつな関係、不安定な立場と不釣り合いな責任の大きさ、ガイド同士やチームの信頼関係の大切さ…。
亡くなったガイドリーダーは有能で頼りがいがあったと生存者は語っている。だが、遭難までの流れを読んでいると、有能な添乗員(旅行会社側の人間)だったからこそ、スケジュールを優先してしまったのではないか。
真相はもうわからないが。



悪天候の中で山小屋からの出発を通知した際、客から少し不満はあったものの、反対は聞かれなかった。
十分に食事や睡眠がとれない人がいた。
前日に濡れた衣類や靴が乾いていない人がいた。
ツアー客に伝えるべき情報(雨具の中に衣類を着込むなど)が伝えられなかった。
最初に体調を崩した人が出た時に、引き返さなかった。
等々。
強いていえば、バラバラの地域から集まってきた3人のガイドたちに面識がなく、話し合いや連携がうまくとれなかったのが大きな原因だったのかもしれない。だが、天候が良ければ、それでも問題はなかったのだ。
事故を回避できたはずの1つ1つの分岐点が、あまりにもささいなことなのに愕然とする。
自分よりも経験も知識もあるはずのガイドが出発しようと言い、ツアーの他の客からもはっきりした異論が出なかったとしたら、私も従っただろう。
多少体調が悪かったとしても、最後の日だからと誰にも言わずに無理したかもしれない。
重い荷物を少しでも軽くするために、食糧を少な目にしたかもしれない。
ふんばらないと転んでしまうほどの風雨の中、雨具を一度脱いで中に1枚着込むなんて、面倒くさく思ったかもしれない。
考えれば考えるほど、どうしたらこの悲劇を回避できたのか分からなくなる。



読み終えて、亡くなった方も、生存者も、なんだかやりきれないなと思った。
実態を知れば、自己責任などという冷たい言葉ひとつで、人の命まで分かったふりなどできない。
彼らは山を甘くみていたわけではない。準備していなかったのではない。体力が無かったのではない、私より高齢だがよほど体力のある人たちだ(何しろ日に10時間以上山道を歩き続けるコースなのだ)。
朦朧としながら、全員が懸命に闘っていた。
低体温症のためにうまく考えられなくなった頭で、一生懸命に生きようとし、励まし、救助しようとし、倒れていった。
二度と悲劇が繰り返されないように祈るだけでなく、この本の知識と、著者の想いが、全ての登山者に行き渡ってほしいと強く思った。
亡くなられた方々のご冥福を祈らずにはいられません。





トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか (ヤマケイ文庫)トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか (ヤマケイ文庫)
価格:¥ 998(税込)
発売日:2012-07-23

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朽ちていった命 -被曝治療83日間の記録-

「朽ちていった命 -被曝治療83日間の記録-」
NHK「東海村臨界事故」取材班(新潮文庫)





以前、医師団の記者会見がニュースで流れていたのを覚えている。
東海村JCOで起きた臨界事故で被曝した人が亡くなったことをその時知った。
「原子力防災の施策のなかで、人命軽視がはなはだしい。現場の人間として、いらだちを感じている。責任ある立場の方々の猛省を促したい」
当時はここまで覚えているわけではなかったが、医師たちが感情を口に出し、しかも他の業界に提言しているのを見たのはたぶん初めてのことだったので、ずっと記憶に残っていた。
医療の現場で何が起きたんだろう。彼らはいったい何を見たんだろう。
何ができて、何ができなかったんだろう。

この本は、東海村の事故で最大の被曝(20シーベルト。8シーベルトで死亡率100%)をした患者が亡くなるまでの、83日間の医師団の闘いを描いたドキュメンタリーだ。

でもそれは、闘いとすら呼べない、絶望的なものだった。

中性子線被曝というのは、ものすごく細い無数のワイヤーが体中を一瞬にして突き抜けるようなものだとどこかのサイトで読んだことがある。
そのワイヤーは、細胞のDNAをズタズタに切り裂いて通り抜ける。
つまり、皮膚、血液、内蔵などの細胞分裂が行われなくなるということだ。
人間は、約一ヶ月で体のほぼ全ての細胞が生まれ変わるとか。ただし、細胞が入れ替わらない脳や神経細胞を除いて。

つまり、体中の異常を神経は変わらず伝え続け、脳はそれを感じ続けるということだ。
寒気がする。

治療にあたった医師は、患者を最初に見た時に「救えるのではないか」と思った。それほど患者の印象は元気だった。
だが、それは間違いであることがすぐに判る。

血液の異常、擦った皮膚は赤剥けのまま再生せず、体内の粘膜はすべてはげ落ち、呼吸困難を和らげるため人工呼吸器をつける。


妹からの造血幹細胞の移植は定着したように見えるが、再生した粘膜は他の細胞から攻撃されて消えていく。

人工呼吸器によって会話ができなくなる前、患者の大内さんは「おれはモルモットじゃない」と訴えた。が、すぐに個人の意志は体の不調に飲み込まれる。

医師たちは毎日変わる容態に、その都度療法を考えるしかない。完全に後手後手に回っている。
医師たちも看護師たちも、できることを懸命にやっているが、崩壊していく人体に対してできることは圧倒的に少ない。

絶望しかない状況で、ひたすら生きようとする大内さんの生命力に驚かされる。
そんな陳腐な感想しか書けないほど、その残酷さは想像を超えている。
「朽ちていく」のは大内さんの命であり、意志を持つ人間としての存在であり、家族から医師への希望であり、医師から現代の最新被曝治療への信頼でもある。
毎日、毎日、裏切られ続け、医師と看護師たちが大量の輸血とモルヒネと強力な薬剤に頼り続ける虚しい闘いで職業意識や気力をすり減らす中、家族はただひたすらに医師たちを信じ続ける。

家族は最後まで治療を望み、治癒を信じて延命治療を止めようとはしない。
その言葉少ない強い意志は、弱まった医師たちの精神を支え、あきらめさせなかったようにも思える。
用意された別室で、丁寧に折り鶴を作り続ける家族たち。折り鶴は最後に1万羽近くにもなった。

比較的厚みが薄く文字も大きいので、すぐに読み終えることができる本だと思うが、その内容は濃く、重い。
著者の感情を交えず、淡々とシンプルで、専門的な部分もかみ砕いてあるので判りやすい。
医師としての迷い、家族の想い、周囲の人々の困惑と無力感がダイレクトに伝わってくる。

助けようとする意志、祈り、生きようとする生命力そのもの。
医療という科学に対して、そんなこと言うのはおかしいのかもしれないけど、大内さんの83日間の戦いを支えたのは、細胞幹移植や薬剤だけではなかったように思える。

本人の意志を無視して生存させるべきだったのか、そもそも自分の生命のことを自分以外の人間が決めていいのか、家族や医師の自己満足じゃないのか、だがあるいは“助けたい”気持ちは理屈じゃないのか。

いろんなことを考える。

臨界に達した時の「チェレンコフ光」は、、荷電粒子が物質中を運動する時、荷電粒子の速度がその物質中の光速度よりも速い場合に青い光が出る現象だという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%95%E6%94%BE%E5%B0%84
アインシュタインは、光を追い抜けるものは存在しないと言ってなかったか?
チェレンコフ光を浴びた者は、もしかしたら神の領域をかいま見たのではないか。私は無神論者だが、畏怖をもってそんなふうに思う。
それほど、ウィキペディアに載っている青い光の写真は美しい。

仏と違って、神は怒るし呪う。
人間の遺伝子だけでなく、柔らかで優しい気持ち、いろんな関係性をズタズタにするのだ。中性子線というものは。

大内さんのご遺体で、ほとんどの筋肉細胞が破壊され尽くす中、唯一きれいに残っていたのが心臓だったという。
検死解剖を行った法医学教室教授はこう語る。
「私には、大内さんが自己主張をしているような気がしました。(中略)心臓は、大内さんの「生きたい」という意志のおかげで、放射線による変化を受けずに動きつづけてこられたのではないかという気さえしました。
もう一つ、大内さんが訴えていたような気がしたことがあります。
それは放射線が目に見えない、匂いもない、普段、多くの人が危険だとは実感していないということです。そういうもののために、自分はこんなになっちゃったよ、なんでこんなに変わらなければならないの、若いのになぜ死んでいかなければならないの、みんなに考えてほしいよ。
心臓を見ながら、大内さんがそう訴えているとしか思えませんでした」

私はこの言葉を、科学とかけ離れた情緒だとはどうしても思えない。
なぜなら、科学は人とともにあるべきだと思うから。
故カール・セーガン博士はこう言った。
「科学にとっていちばん貴重なものはなにか?相対性理論、量子力学?
いやいや、そんな一つ一つの理論をとやかくいうつもりはありません。
いちばん貴重な物は科学自身に”エラー修正機能”が組み込まれているということです。
そして似非科学と決定的に違っているのは、本当の科学のほうが、人間の不完全さや、誤りやすさをずっと認識している点です。むしろ「人間は間違うことを断固として認める」ぐらい積極的な機能をもっているのです。
ですから、誤りを含んだ科学と似非科学はまったく異質のものなのです」


「象」新国立劇場・小劇場(2010年3月)
http://namaste.blogzine.jp/blog/2010/07/20103_1d6f.html








朽ちていった命―被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)朽ちていった命―被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
価格:¥ 460(税込)
発売日:2006-09

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「オメラスから歩み去る人々」アーシュラ・K・ル・グィン

ありとあらゆる幸福と美しさが盛り込まれたユートピア、オメラス。
しかもそこは退屈とも無縁であり、優しさと正直さと楽しさにあふれた都。
まさに、理想都市。
しかし、その幸福は一人の不幸によって支えられている。
しかも、都に住む者たち全員がその事実を知っている。
オメラス市民が持つたった一つの誤魔化し。それは、たった一人のその人間を見捨てることだ。そうしなければ、都の繁栄と人々の幸福は地に墜ちる。
しかし、その誤魔化しに耐えきれないごく少数の者たちは、独りでそっと都を出ていく。誰にも告げずに、未開の荒野のその先に。



何十年も前に読んだ、SFの超短編がずっと忘れられないでいる。
「オメラスから歩み去る人々」
幸福というのは人によって違うから、あまり具体的でなく、叙情的な、まるで詩のような表現がずっと続く。
それが、一人の不幸を描く箇所になるととたんに具体的になる。
暗く、寂しく、空腹で、汚物にまみれ、孤独すら分からなくなるぐらい孤独に置かれるということが、肌にピリッとするほどの文章で描かれる。
映画「告発」の冒頭10分で描かれているような、肉体的にも精神的にも追いつめられ、崩壊していくさまだ。



今までの東京は、実はオメラスほども幸福だったのかもしれない。
ただそれにも気づかずに、不平や不満を感じていた。
原発が建設された小さな村という「たった一人の不幸」を犠牲にしていたことも知ろうとせずに。



これからは、みんなちょっとずつ「我慢」すればいい。
不幸を下敷きにした満足からそっと逃げ出すことが、自己満足や偽善や経済の停滞に見えるかもしれないが、私はそれでもいいと思う。
だって、私のできる数少ないことの一つだから。





きょうも上天気  SF短編傑作選 (角川文庫)きょうも上天気 SF短編傑作選 (角川文庫)
価格:¥ 660(税込)
発売日:2010-11-25

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メメント・モリ 死を想え

我が敬愛する藤原新也氏の有名な著書が、出版社を替え、装いも新たに出版されている。
「メメント・モリ 死を想え」(三五館)
本木雅弘さんが、映画「おくりびと」を作るきっかけとなったという本。
彼の着想と情熱は映画制作関係者も動かし、「おくりびと」が作られた。

情報センター出版局から出版された初版は25年以上も前なのに、わたしはこの本を持っていなかった。
答え「縁がなかったから」
「全東洋街道」でインドを目指し、「東京漂流」「乳の海」は何度も読んでいたのに、この本は手に取ったけれど購入しなかった。
たぶん、「死」が遠いものだったので、中の写真も言葉も、それほどは心に響いてこなかったんだと思う。まだ祖父母が生きていた頃の話だ。

今回、写真に添えられている文字が銀色になった。
見えるような見えないような、角度によって写真から浮き出したり沈み込んだり、する。
新しい写真も挿入された。
あの頃と違い、書店でこの本を見つけて躊躇なく購入したのは、死者がわたしの精神を形作り、強化していることを実感しているからかもしれない。
親しい人が亡くなるということは、それまでの心のよりどころを再構築することにほかならなかったから。
同時に、わたしの身体を作っているのも、また死者なのだと思い至る。動物、植物、菌類、すべての生きていたものの屍骸を再構築して、今、わたしは生きている。
そういう意味で、わたしは死を想わずにはいられない。

http://www.fujiwarashinya.com/





メメント・モリ―死を想えメメント・モリ―死を想え
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2008-10

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