parks@blog

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

「十三人の刺客」(2010年・日本)

ストーリーはオリジナルにほぼ忠実なので、以前の感想を参照ください。
http://namaste.blogzine.jp/blog/2009/10/1963_dad4.html





公開日初回に東京近郊のシネコンで観賞。客層は年配のご夫婦中心。前方の席を中心に1/5ほど空いていた。
大仰だが奇矯ではない毛筆のタイトルと登場人物の名前は、ああこれから「時代劇」が始まるのだなと思わせる。たぶん、観客の意識はこの時点で昔に戻っていることだろう。
私の年代としては、少しの違和感とその大仰さが可笑しい気持ちもある。
ブログなどの前情報を極力避けていたため、ワクワクと怖さが入り混じった状態。どんな殿が観られるのか、もう息をつめている感じ。
いよいよ松平左兵衛督斉韶の登場…っていきなり尿筒(しとづつ)でジョボジョボボー。
まるで監督から「この役者から今までの立場をすべて剥ぎ取って、生理もろとも醜い部分を引きずり出してみせますよ」という宣戦布告をされている気がした。
またそれに対して、人を人とも思っていない涼やかな顔で、何でもないことのように稲垣吾郎さんは受けて立った。
尿(排出)の部分だけではなく、食事の犬喰いシーンといい最後に厠に首が飛んでいくところといい、この予想は半分当たっていたと思う。
監督の予想を遥かに超えた美しさと存在感を、稲垣さんが持っていたという事実を除けば。
一回目はそこから意識が映画に張り付いてしまって、感想どころじゃなかった。
ああ憎たらしいっっ!
斉韶をひたすら憎み、嫌悪し、成敗する十三人側にカタルシスを感じていた。アイドル稲垣吾郎ではなく、ただ一人の稀有な性格俳優として観ていた。
ベネチアで、イギリスで、スペインで、ソウルで、観客の皆さんが泥だらけで血まみれの彼を観たのだ。これからも海外で観られることになるのだ。
素晴らしい!



オリジナルの虚しさ、悔しさ、脱力感を引きずる余韻はないけれど、それをしのぐ達成感!カタルシス!飽きさせず、息もつかせない。
50分間の戦闘シーンも、刺客たちが徐々に疲労して息も絶え絶えになり、気力だけで闘うようになっていくまでをリアルタイムに描くには、そのぐらいの時間は必要だったと思う。
皮膚を切られ、肉を裂かれ、骨を断たれつつ、大人数に徐々に押され消耗していく十三人の描き方が巧い。(敵は絶対300人以上いるぞこれw)
しかも、ところどころに印象深い台詞を挟み込み、刺客、殿、家臣たちの関係と心情を浮き彫りにする。
いやはやまいったね。
十三人の側も、殿の側も、知力は尽くすが誰もずるいことを考えてはいない。だから、晴れ晴れとした心で映画館を後にできる。
客を選ぶ(デートのお供とかとんでもない)ので、動員は恋愛を絡めた中途半端な娯楽作品より伸びないかもしれないが、顧客満足度No.1ぐらい掲げてもいいと思う。



三橋軍次郎(沢村一樹さん)の爽やかな軍師っぷりと、最期の仁王立ちからの唐竹割りで倒されるのが良かった。
浅見光彦やセクスィー部長のイメージがついてるかと思ったら、もっと軽やかな役者さんだった。



大竹茂助(六角精児さん)が、最期に目標の殿を見つけて、気がふれた幽鬼のように笑いながらふらふらと向かっていくのも良かった。



剣豪である平山九十郎(伊原剛志さん)の「わしの背後に抜けた者を斬れ。一人残らずだ」なんて台詞、もう、心が痺れまくるじゃないですか。
白兵戦のセオリー「刀がなければ石、石がなければ拳でもなんでも使って相手を五体満足にはしておかない」通りに戦って無様に死んでいく様子を、弟子の小倉庄次郎(窪田正孝さん)の倒れた目線で横から映すなんて監督まじ天才。



その剣豪よりも強そうな倉永左平太(松方弘樹さん)の八面六臂の戦い方ときたら、まるで戦いの神のようだ。
まさに、顔で叩っ斬る、といった圧倒的迫力。長いこと時代劇をやってるとこういう凄みが身につくってことか。
いつ桜吹雪を見せるんだろう、とも思ったほど堂に入っていた。
彼の死に方は、既に体力の限界を超えていたのに精神だけで戦っており、周りの建物が燃え落ちていくのを見て心が折れたような感じだ。



この戦いで一番の成長を見せた武士が敵方にいる。浅川十太夫(光石研さん)だ。
これは驚いた。
半兵衛の有能さと比較して凡庸さだけが目立つ、殿の腰ぎんちゃくのような武士だったから、家屋の爆発で腰が抜けそうになっていたり殿と一緒に逃げ回ってばかりなのを当然と見ていたのに。
ていうか最初から眼中になかったのに。
人を斬り、倒していく過程で浅川の中の何かが目覚めたように、顔つきまで変わっていく。
前述の"戦いの神"と化している倉永に向かって行くなんて自殺行為だと思うのだが、彼はそれすら躊躇わない。
どぶ川に倒れ込みながら半兵衛に「殿を、殿を頼みましたぞ」と告げる瀕死の浅川は、その瞬間、他の誰より武士らしかった。



忘れちゃいけない。
初っ端からの切腹シーンは音と内野聖陽さんの鬼気迫る演技に圧倒された。セリフもない間宮図書をここまで本気で演じるとは。
切腹の作法通り、介錯もつけずに腹の左から右に一文字。次に下から上にかっ切って果てる。(映らないけど)
その尋常でない苦しさが、苦悶の表情とぐちゃっぬめっずるっという音から、観ている側の腹と脳に響いて伝わる。
どれだけの怒りと願いが「上」と書かれた訴状に書いてあるのか、一気に引き込まれた。
台詞もなく、一瞬しか出演せず、かなりの精神力を必要するこの役を、よく引き受けてくださった。



土井大炊頭(平幹二郎さん)の重厚な存在感も凄かった。
老中たちがやんちゃな殿の始末を合議するシーンでは、やはり屋敷の美しさが際立つ。
そこに平幹二朗さんの重厚な演技と表情。まさしく「武士」しかも偉い人って感じがハマる。
登場すると、いきなり空気がずーんと重くなるもの。
権力と責任の大きさと共に、思うように動けない焦燥感や、物事の緊急性を新左衛門だけでなくこちらまで迫ってくるかのような感じがした。



この事件の直接の原因となった、息子夫婦をまるで虫けらのように殺された男が、牧野靭負(松本幸四郎さん)だ。
彼の無念さと覚悟、自分だけが生き続けていることへの恥ずかしさと自嘲も切なすぎる。
斉韶一行を分割させ、道の変更を余儀なくし、役目を終えた彼はすべての責任を抱えて切腹する。
十四人目の刺客は間違いなく彼だろう。



見せ場だらけ、名台詞だらけ。
なんかもう、良いとこばかりというより良いとこしかない映画じゃないか!



二回目はレディースデイでもないのに我慢できなくっなった平日、一回目と同じ映画館だけれど観客数の少ないスクリーンになってた。男性ばかり10人ぐらい。ほぼ中央の席で観賞。真ん中だとやっぱり音のバランスがいい。その代わり、グチャッとかグニュニュッとか悲鳴までクリアに聞こえてくるわけだが。
おや?殿が麗しく見える。(ちょっと眼をしばたいてみる)キレイすぎるなこの人。
汚れるからこそ美しいって何よ。
一回目で衝撃だった尿筒から残虐シーンから犬喰いから泥まみれやら何やらが、とてつもなく魅力的に感じてきた。そんな自分が信じられないが、どこかでこんな相反する感情を経験したような気がする。



…思い出した!9年前のあの時だ!
2001年9月21日、道交法違反で捕まった時だ。その謝罪会見をテレビで見ていた。ファンとしての強い不安や動揺があった。
なのに、気づくと見とれている自分がいた。
立ち位置どころか世界も違う人を引きずり下ろして泥をかけることしか考えない、凡庸なスノッブたちがスポットライトを当てる。さあ、もっと汚れた姿を見せろと体裁のいい「民意」のようなものをチラつかせ、正義のような顔をして彼を引き据える。
そんな薄汚い好奇心や中傷のただ中にあって、白いシャツと少し乱れた髪、ほんのちょっとだけやつれた、けれども毅然と前を向いていた若者を、心の底から華麗で優美で妖艶だと感じた。
いつも割りと理由づけをしてしまう私にとってその感情は初めてのもので、「いやそんなこと思ってる場合じゃないだろう」と自分自身にツッコんでもみた。
が、心に芽生えた倒錯的な強い衝撃は、他の雑音や不安や常識に勝っていて、気づくと涙を流していた。
何故なのかは、いまだによく分からない。
「彼が美しすぎたから」としか言えない。



その時の気持ちは忘れかけていたのだけど、この映画で甦った。しかも、かなり強烈なインパクトを持って。
女の髪を持って引きずったり、子供に向けて矢を射ったりする斉韶はひたすら無表情で、参勤交代でカゴに揺られている表情など、取り付くしまもない「空虚」でしかない。
この人は、退屈で退屈でしょうがないのだ。おそらく自分の父親や兄(現将軍)にも増して切れる頭を持っているはずなのに、養子とはつまらない立場になったものだ。とでも思っているんだろう。
このサイコパスめ!
そして、刺客たちが現れ、自分が中心になった大乱闘に巻き込まれてはじめて、殿の表情が明るく変わっていく。
斬り、斬られ、命がけのやりとりをする刹那の面白さ。彼はその様子を見て心底愉しむ。
まるで「余も愉しいが、お前たちも愉しみにここに来たのだろう?のう、そこな客」とこちらに微笑みそうなイキオイで。
最後に泥だらけ血だらけになって顔立ちもハッキリと見えない状態で転げまわっている、その時の灰色の泥と血の色と柔らかく白い絹の衣装、彼の瞳の輝きと形のよい唇の赤さに、鳥肌がたつほどのおぞけと美しさと色気を感じた。
怖い、この人。(「この人」って斉韶のことなのか稲垣さんのことなのかもハッキリしないまま)
でも眼が離せない。まさに魔性。
矛盾した感情が溢れて自分でもビックリした。



誰にも理解されないような、暗く異質な脇役に惹かれるこの癖はどうしたものか。
自分と共通項がないように見える役柄に、強烈な引力を感じる。
ドラマ「白洲次郎」における近衛文麿(岸部一徳さん)。
小説「終戦のローレライ」における浅倉良橘(映画では堤真一さん)。
そして、この映画の松平左兵衛督斉韶(稲垣吾郎さん)。
彼等は虫唾が走るほど醜悪であると同時に異分子として美しい。
言葉や態度や条理などの、数を頼んだ凡人の毒で彼等を汚そうとしても、いっかな汚れることのない強さに、私はいつも敗北する。
これからも稲垣さんは軽やかに美しく、様々な舞台を羽ばたいていくのだろう。
彼にしかできない役を、彼にしかできない解釈で、彼にしか備わっていない美しさを存分に利用しながら。



三回目は祝日のレディースデイ。女性ばかりかと思ったら意外に男性中心だった。
席はほぼ埋まっており、皆さん何度か観ていらっしゃるのかノリがいい。笑う場面ではちゃんと爆笑、気持ち悪い場面では息を呑む。
残酷さも美しさも含んだまま、三回目でやっと斉韶の論理が伝わってきた。



空(くう)だ、この人は。
オリジナルの殿はただの我侭な癇癪持ちだったから、まだ理解できた。最後に半兵衛を頼りにしているのが伝わってきたし、少なくとも残虐さが人間くさかった。
今回の殿は違う。
生きていることが空っぽで退屈で、その頭の良さゆえに周りをすべてバカにして、本にも経験にも人にも影響されない男。
他人との軋轢、魂で語り合うことの楽しさ、人生の先輩からの教えと彼等に対する尊敬の念。人間としての情感を何ひとつ知らないまま成長した、こんな殿様いたんじゃないかとも思う。だから他人を抑圧して、相手が自分の言った通りに動くことにしか自分の生を確認する方法を知らなかったのか。
おそらく幼少時から動物に対する殺生を繰り返してきたはずだから、近しく思っていた異母兄(現将軍)からも、いろいろなことをたしなめられつつ育ってきたのではないか。(斉韶に対する甘い処分から推測)
その際に使われただろう大義名分など信じてもいないくせに、頭の悪い家臣たちを言いくるめる時だけ引っ張り出す。自分にだけ都合がいい傲慢さ。
「何が間違っていて何が正義なのか、誰でもいいから我に教えろ」と彼は耐えずつぶやいてでもいるように感じた。
この男は、死んでるように生きる退屈を、ただ埋めたいだけなのだ。
結果的に、血も涙もない、おまけに品性までも捨てた人間になったとしても。
だが反面、他人の痛みが分かるような優しいふりをして泣くだけで何もしない、そんな偽善などあっさり論破した上で斬って捨てるような部分に憧れる。
誰よりも正しく幕府の弱体化と日本の行く末を洞察し、躊躇なく口に出す聡明さと、欲望を隠そうとしない率直さを併せ持ち、恐ろしく暗い論理で周りを振りまわす男。
鳥肌が立つほど魅力的だ。
その状態で更に美しく輝くって、どういうことよ。
だから、建前だらけの武家社会にがんじがらめになっている輩など、所詮歯のたつ相手じゃないのだ。



同じように、刺客の側にも退屈を体現している男がいる。
島田新六郎、山田孝之さんの役だ。
彼の登場する賭場のシーンが美しい。もろ肌脱いだ三人の男、体には一面のモンモン、和蝋燭で照らされた橙色の濃淡で男たちの筋肉が、深い陰影を作る。
「必殺仕事人」を初めて見た時のような、退廃した闇のドロリとした妖しさ。
その闇に新六郎はじわじわと浸食されている。芸者に養ってもらいつつ、賭け事や酒やどんちゃん騒ぎや喧嘩で空虚な心を忘れようとしている。
そこに新左衛門が持ってきた、命を賭ける博打。命を惜しんで時間を削るような賢い生き方をあざ笑うように、新六郎は賭けに乗る。
「もし遅ければ、お盆に帰ってくる。迎え火を焚いて待っててくれ」
現時点でこの台詞がこれだけ似合う俳優は、山田さんと同年代にはいないと思う。
くすんだ色合いにはくすんだように、血ぬれた場面ではギラギラと、戦いを終えてからは周りの空気すらうっとうしげに、柔軟に変わるその空気はたぶん天性のものだ。山田さんが映像に現われるとスクリーンが彼の色に染まる。
表情、身のこなし、目つき、足さばき、声音、それらを僅かに変えるだけでひとつのシーンが成立する。
台詞でも形でもなく、目つきだけで一瞬の殺気を出す。
驚いた。
彼は役者になるために生まれてきたような存在だなと思った。



女たちと遊んでいるシーンで、この時代の説明が大店の客と馴染みの芸者の間で交わされる。
天保の改革が失敗し、締め付けの反動でますます武士が弱く、商人が金の力をつけている時代。
(幕末の幕府があれほど弱腰でいるしかなかったのは、列強諸国の国力もさることながら、この改革の失敗が尾をひいているのじゃないかと思う。)
一見派手なようでいて、爛熟を通り越して制度が腐っている時代。役目を与えられていない武士(長男以外)は途方に暮れるしかなかっただろう。
ただ、同じように退屈はしていても、斉韶と新六郎の立場はまったく違う。
武家社会という函の中でのみ許される自由に甘んじている天才と、自由を無駄遣いして生き続けることに疑問を持つ武士と。
だから、最後の闘いのもっと先、老中になったその先を既に考えている殿よりも、生き残ることを想定していない新六郎が輝く。弓を射掛け、いよいよこれから白兵戦が始まるというその時に、屋根の上で彼だけは微笑んでいるのだ。死に場所を見つけた喜びに。
死を美化しているのではない、生きるという息苦しさを開放できる喜びに震えているのだ。
ノベライズにもこの笑みはあったが、このシーンで笑わせたスタッフはすごいと思う。



また、全ての武士と対極にある存在として木賀小弥太(伊勢谷友介さん)がいる。
山で迷った刺客たちが拾った男。ここで伊勢谷さんの日本人離れした風貌が際立つ。右側のモミアゲないのかこの人?と思ったら耳まで何かただれたか潰れたようになっていて、違和感が重なる。
更に、オーバーアクションだったり声の抑揚とか表情の豊かなところがまるで欧米人のようで、なんだか可笑しい。
何人かのブロガーさんも指摘していたが、彼はサンカかもしれない。定住せず、山間を移動しながら生活していた人たち。明治以降には集落や都市に吸収されていき、いなくなったとされる。
真の自由人のイメージは彼等なんじゃないかな。
彼の自由さときたら半端ないもの。
頭の女を奪い、見せしめで釣られたまま置き去りにされ、面白そうだからと刺客の仲間に加わり、女だけでなく男も○○○し、頑丈で楽天的な、身分の違いなど屁でもない汚れた野人。
小弥太の柔軟で明るい(おかしな)シーンがあってこそ、その後に続く戦闘シーンが暗く生き生きとして、躍動感と緊迫感に溢れたものになった。
変だけどね。(笑)



ここで、真に自由な者、自由を知らない者、自由を持て余す者が揃った。
自由を知らない斉韶は満足して死に赴き、真に自由な小弥太は山に戻る(たぶん彼の人生にとっては武士の命のやりとりなどただの小さな刺激にすぎない)。
さて、自由を持て余しすぎて新左衛門から「あっぱれな極道者」とまで呼ばれた新六郎は、この戦いの後どうしただろう。
戻る場所はもちろんつやの元しかないだろうが、その後、彼の性格では1ヵ所に落ち着けずにまた戦いに飛びこんでいったのではないか。
あと何年かすれば幕末の混乱が始まるだろうし、これほど充実した命のやりとりを経験した人間が、家庭を築いて普通の日常に戻れるとは思えない。
そんなことを想像するのもまた楽しい。



島田新左衛門(役所広司さん)と鬼頭半兵衛(市村正親さん)の対比もいい。
役所さんはいつの間にここまで安定感のあるどっしりとした俳優になったんだろう。
十三人の動機付けになる重要なシーン、手足を切られ舌を抜かれたダルマ女を目の前にして、にやりと武者震いする姿は、もうこの男に任せるしかないと老中ならずとも思うだろう。
ちなみにこのダルマ女役の女優さんが影の主役だと思う。
血の涙を流しながらの絶叫アップは、その瞬間から観客の記憶に残ってずーっと最後まで離れない。私は何度見てもそのシーンで鳥肌が立った。
「切れるというわけではない。おそろしく強いわけでもない。だが、負けぬ。無理に勝ちに行かず、押し込まれてもなかなか動かず、最後には少しの差で勝つ」
役所さんはそういう飄々とした存在感を見事に体現していた。
中でも飄々さとか器の大きさを感じたのは、日本酒を飲むシーン。まことにそれは旨そうで、新六郎などよりよっぽど散々やり尽くして大人の男になったのだろうと感じる。
斉韶一行が七十余名→三百名に増えたのを知った時の、絶望に沈み込みそうになる部下たちを笑いながら激励し「天命あって集いし我ら十三人」と言える胆力も流石だ。
冒頭の魚つりの伏線も生きている。機を待つことと捉えることができる男は頼もしい。
「預かったおぬしたちの命、今からはこの新左が使い捨てに致す」
そんなこと言われてみたいと思うほどに。



そんな大きな男と対峙する半兵衛は皮肉な役だ。
道場では互角でありながら、しかも今は自分のほうが身分が高くありながら、コンプレックスを拭えないでいる男。自分が侍として選んだ道を正しいと新左衛門に言いながら、実は自分に言い聞かせているようにも見える。
語尾が微妙にミュージカル調なのは唯一のご愛嬌。
斉韶のような男を主君に持ったのを不運と思いながらも、それが自分の役割だと自分自身まで騙しながら戦いに赴く。戦いが進むにつれて明らかになる斉韶の常軌を逸した発言に忸怩たる思いで。
「余が老中になったあかつきには、再び戦の世をあらしめることにしようぞ」
心から楽しんで瞳がキラキラしてる殿にこんなこと言われて、半兵衛の胸中はいかばかりか。
おまけに背水の陣で臨んだ一対一の決戦でも、卑怯な手(てか足)で新左衛門に負けてしまうし、首は殿に蹴鞠のようにあっさり蹴られてしまうし…もう踏んだり蹴ったり。
オリジナルでは瀕死の殿に「半兵衛、半兵衛」と頼られる役だったのに、今回は軽んじられ軽蔑されてばかり。
不運すぎる。可哀想すぎる。



最後の最後で、新左衛門が、斉韶に対して彼の在り方を全否定する。
「ただの飾りの刀に過ぎぬものを、本身だと思われたが誤り。黙って飾られておれば、それでよいものを」
これは強烈な皮肉だが、斉韶にとっては痛い真実だったのだろう。人は、本当(と自分で思い込んでいる弱みや気持ち)のことを言われると怒る。
「下郎めぇ!」おそらく、斉韶にとっては生まれて初めての激情だ。
その時、魂は昇華する。
臭い厠の傍、ハエが飛び交う中で、泥だらけ血まみれで、体の深い深い場所からの痛みとともに、生きて、そして死んでゆく実感を得た。
一対一で、斬り、斬られることによって、初めて彼は人間としての交わりを持てたのではないか。
ひたすら忠義を誓っていた半兵衛ですら(だからこそ)、彼を理解しようとは決してしなかったから。
そんな男たちは、斉韶にとって軽蔑の対象でしかなかった。
斉韶に満足と共感をもたらしたのは、異質な価値観を持つ小弥太と、皮肉にも人格的に180度違う新左衛門しかいなかったのだから。



稲垣さんは斉韶という役について「自分の中にはない」と言っていた。
以前、水谷豊さんが「どんな役柄でも、自分の中に少しだけある同じ部分を、どう引き出していくか」というようなことを言っていたのとは逆だ。
自分の中にその役があるのかないのかではなく、自ら役の流れの中に飛び込んでいくような潔さが、稲垣さんの演技にはあると思う。集中して演じているうちに、会場あるいは映像全体を存在で包み込んでいく静かな強さ。
これは最近の彼の舞台に特に感じる傾向なのだが、勘と理解力が加速度的によくなっているように感じる。
しかも、彼のアクはあくまで透明だ。いつのまにかすんなりとそこにいる。
戦いからもう少しで逃れられるという時、殿の背中が映る。半兵衛がこっちを向いて話しているというのに、殿の背中が静かに上下しているほうが気にかかる。少しよれて汚れた白い絹の着物、その美しさと存在感ときたら!



三池監督は「東京ドームの五万人の前で歌ったり踊ったりできる人だから」稲垣さんを斉韶役に選んだ、というようなことを言っていた。
あれか。と思った。
コンサートでの稲垣さんがSMAPの他の四人と違うところは、微妙な視線の距離感だと思う。
ファンが嫌いなわけでは決してないだろうが、彼はファンとの交流より"もっともっと僕を見て。そして笑って楽しんで満足するがいいさ"感が強い気がする。
そのためにはファンなんてそこにいてくれるだけでいいのだ。なんか矛盾してるような気もするが、たぶん彼の中では矛盾していない。
自分の持てる力を最大限に引き出し、最後まで自分の体力を保てるように本番前に会場でジョギングする。そういう類の努力は怠らないプロ根性の人だ。
客席に向けて笑顔も見せるし手も振るけど、実のところ何も見えちゃいないんじゃないかと思うことも多々あるし、たまーに無感動の目を客席に向けることあるよね、路傍の石ころを見るような。
それだ。
稲垣吾郎さんは、三池版の斉韶になるべくしてなった役者なんだと思う。



この映画を見た世界中の人たちに、次にSMAPライブの映像を見せてみたい。
どう思うんだろうとか想像したら、それだけでワクワクする。



映画を見終わっても(結局、5回見た)いろいろ楽しい考えが止まらない。
例えば、斉韶と新左衛門の生まれ変わりが、椿一と向坂睦男だったりしたら面白いなあ、なんて想像したりしている。







十三人の刺客<Blu-ray>豪華版(特典DVD付2枚組)十三人の刺客<Blu-ray>豪華版(特典DVD付2枚組)
価格:¥ 7,035(税込)
発売日:2011-05-27

スポンサーサイト

PageTop

ミルクチャポン

関東ローカルですみません。



「ミルクチャポン」
http://www.tbs.co.jp/milk_chapon/



牛乳による、牛乳だけの、まったく新しい子ども番組。



だそうです。



金曜朝4時35分から。



誰が起きてるんだいっ。



内容は…
ミルクのせかい、がんばれ!牛乳当番、ミルク算数、ミルクラッパー、温ミルさん、その他



気になるーーー



そして、エンディングテーマ「牛乳」を歌うのは高橋乳。



おや?
それは「たかはしにゅう」と読むのかい?



今週は録画するのを忘れたので、来週こそ確認しなければっっっ!

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。