parks@blog

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

ボランティア日記

P1000044_4



2011年9月16日(金)夜~18日(日)



友人に情報をいただき、NPOに参加して陸前高田市のボランティアに行くことにした。
説明会の日から必要な道具を揃え、ボランティア保険に入り、出発日当日まではバタバタな一週間を過ごした。
家のすぐ近くにあるDIYの店で必要なものが全て手に入ったのはラッキーだったな。プロテクトインソール(長靴の下に入れる、薄い鉄板の入ったインソール。釘を踏み抜かないようにするためのもの。必須)の女性用もあった。お客さんで女性は私だけだったけど、作業の格好をした男性のお客さんたちと勝手に一体感ww



総勢38人で金曜日夜に出発。車内での自己紹介で、看護師、医師免許のある方、現役の海上自衛隊など、心強い面々。母娘で参加されている方とか、もう何度もボランティアに参加している方などもいらして、割とのんびりした雰囲気。
高速道路に入ると消灯の時間になったけど、私はなかなか眠れない。眠りが浅いまま、夜明けを迎えた。
まだ日常を引きずっていて、この先に被災地があることもなかなか想像できない。
岩手のコンビニで、朝食を買うための列に並んでいる時に地震があった。そういえばさっきも止まっているバスが揺れていた。震度3ぐらいだろうか、東京よりも遙かに余震の回数が多いのかも。
こんな不安を抱えながら6ヶ月。
少しだけ、被災地寄りになる気持ち。



見慣れた東北の山道を走る。ヨークベニマルやコメリは、東北ではメジャーどこ。色褪せた看板すらも懐かしい。
山の中に突然、1階のガラスが全て真新しくなっている一軒家が見えた。何件かそういう家が続く。背後の杉の一部が赤茶けて枯れている。
そこからが津波の被災地だった。
何事でもなかった地域、1階のガラスが抜けていたり新しくなっている地域、家が潰れていたり更地になっている地域の差が、だんだんと、ではなく、土地の高さによってスッパリと切れている。
その差で、隣家との仲がこじれてしまった話も聞く。



視界が開けた。
何もない、埋め立て地のような風景が広がっていた。そこが陸前高田市の平野部だった。
ぽつりぽつりと立っているコンクリートの建物と、真っ黒い沼のような場所、少なくとも100台は並べられているだろう車の残骸、そしてビルの4階ほどまで積み上げられたガレキの山が、ここに人が生活していたことを示している。
360度広がるその風景に圧倒されそうになりながら、あえてそこには意識を向けないようにした。これからひと仕事あるってことだけを考えようとした。



バスは再び山の中に入り、陸前高田市のボランティアセンターに向かった。この連休は全国からのボランティアバスが集中しているらしく、近くの道の駅で9時半の受付を待ちながらグループごとの打ち合わせなど。
私のG長さんはどこか飄々としている。とにかく怪我と熱中症には注意、無理は絶対にしない、以上。みたいな。何度もボランティアに参加している方らしい。
道の駅は地元の野菜やお菓子などを売っていて、どれも美味しそう。ふきのとう味噌とかもめの玉子を購入。もう初手からお土産ですかとwww
あと、支援ステッカー(写真)を買ったよ。
一本だけ残った「希望の一本松」は平野のどこからでもよく見える。復興のシンボルとしてとてもふさわしいと思った。
やっとボランティアセンターでの受付が始まった。
ここで陸前高田市に住むYさんとお会いすることができた。あわただしい中、会ってくださってありがとうございます。



ボランティアバスは作業地に進む。
下部の部分だけ赤茶けた杉を横目に見ながら、ただただ今日の作業のことだけ考えようと思う。そうでなければやりきれない。基本いくじなしなので。
Yさんに対しても被災者という目では見たくなかったから、笑顔で挨拶して握手してお土産を渡して。
現実というその場所を真正面から見るのが怖くてしょうがなかったから。



まさに自分がその中心地にいるのだから、近いうちに凝視しなければならなくなるのは分かっていたけれど、とりあえず先送りしたくて。



作業をするのは小友町、海沿いの集落(のあった場所)だ。小さな湾には新旧二つの堤防があったが、津波はそれを乗り越えた。旧いほうの堤防は一部崩れていた。
海側からゆるやかな段々のあちこちに家は建っているが、斜面の石垣が崩れていて、大きな土嚢でとりあえず支えている高台の家もあった。
家があった痕跡が何もない、一番低い土地のガレキ分別が私たちの作業だった。



学校のグラウンドほどの土地だが、そのうち1/3は水が引いていない泥地なので手がつけられない。残り2/3も背丈ほどの雑草が生い茂っているので草刈りから始める。
草刈りの後にその土地を何かするというものでもないので、地面ギリギリから刈り取るのではなく、少し上から刈るのでもいいと言われた。
久しぶりに持ったカマは最初のうちは慣れなかったが、徐々にペースが上がってくる。根本から刈らなくともいいので腰も楽だ。そのうちに、刈るのではなく抜いたほうが速いものと、根が深くて刈るしかないものが分かってきた。
雑草の部分には虫がたくさんいた。でも、地面にはいない。いくら草を引っこ抜いてもミミズ一匹出てこない。砂地になってしまっているからだが、そんな地面は初めてで違和感がある。



20分経つと10分休み。休憩が早すぎるのではないかと思っていたが、実際作業をすると意外に疲れている。じりじりとした夏の暑さではないが、じわじわと汗をかいて消耗していく感じ。
水と一緒に熱中症予防のアメを舐める。酸っぱいような甘いような塩辛いような。これが甘いと感じたら、もう熱中症の入り口なんだそうだ。危ない危ない。
ちなみに首に巻いていたのはSMAP AIDのファンミ限定タオル。細長いので非常に具合がいい。1日目は黄色、2日目は赤を使おうと思って両方持ってきた。気持ちも勢いづくし、ラスタカラーで派手だから他の人からも認識してもらいやすい。



草刈り途中で写真を見つけた。
砂にまみれて顔の識別は難しそうだったが、真ん中に白いウェディングドレスを着た人がいるので結婚式の写真だと分かる。
このあたりで亡くなった人は少ないということだったので、修復されたら持ち主に戻るといいなあ。



お昼は仕出し弁当を食べる。魚、肉、漬け物など、味が少し濃いのが疲れた体に沁みる。そして何といってもご飯が最高に美味しい。東京のお弁当とは段違いだ。
納屋か何かだったらしい板張りの場所に腰をおろしていたが、目の前には家のコンクリート土台と見事に整備されていただろう小さな庭があった。
ここがどなたかの土地なのだと再認識し、食事場所を提供していただいたことを心で感謝する。



何度目かの休憩の時、この作業を依頼したばさまがやって来た。比較的海に近かったが高台にあったので流れなかったらしい。
全員が作業の手を止めてばさまの話に聞き入る。
1回目の津波の時はまだ避難しなかった。今まで何度か津波が来たことはあるけど家は高いところにあるから大丈夫だと思っていた。窓から海を見ているとどんどん黒い水が上がってきて、2度目の津波が来る前に逃げなければならないと思った。
1度目の津波が来る少し前、橙色の車が海の方へ走っていくのが見えた。車はそのまま巻き込まれたが、海のほうからも陸からもぐるっと回りこんだ水であっという間にぐるぐると流された。中の人が助けてくれと叫んでいたようだったが、自分ではどうすることもできずにそのまま逃げた。今でもその光景は忘れられない。橙色の車がどうなったかは分からない。
海沿いのここいらには30件ほどの家があったが、自分の家を除いて全て流された。あれだけのものがどこに行ったのか、海に流れたのか地面に埋まっているのか、さっぱり想像もつかない。
仲良くしていた人たちはみんな別の場所に行ってしまって、自分は今、孫と一緒に住んでいる。
せめてガレキだけでも何とかしたいと思って依頼したが、短時間でここまでしてくれるなんて本当に有り難い。仮設トイレもあるが、自宅のトイレを使ってくれてもいい。外にあるトイレだから靴はそのままで。



訛りがきついので、他の人たちは後から「あちこちよく分からなかった」と言っていたけれとも、私には全部通じた。イントネーションは多少違うが、東北ネイティブの山形人なので。
頭に入れてしまうとドライではいられない。
何度も何度も泣きそうになりながら、一生懸命いろんなことを考えて気を逸らそうとした。
でも無理だった。
聞くことでほんのちょっびり背中が重くなった気がした。でも、さっきみたいに逃げることはしない。一生覚えておく。
私が重くなった分だけでも、ばさまの曲がった背中が軽くなってるといいなと思いながら。



作業再開。
ガレキはいろんなものがある。それを、木、金属、ガラス類、その他に分別する。
子供の名前のついた文房具や、アニメのDVD、ムード歌謡のCDとか、壊れることなく埋もれていた瀬戸物、何かのエンブレム、ぼろぼろになったシャツ、折れたゴルフクラブ、変形したアルミ枠、魚とりの網、長靴、水を含んでとんでもない重さになった毛布、お店があったらしく、醤油やソースや水のでかい未開栓ペットボトルとか缶コーヒー未開栓とかゴロゴロ、農家しか使わないらしい高級肥料の袋とか、……動かせないからどうしようもないけど、小さな漁船とか。
今日一日だけでけっこうな山になった。
続きはまた明日。



気仙沼の高台にあるホテルで、お風呂を使わせていただく。
流された地域ではないけど、密集したほとんどの家の1階が使いものにならなくなっていて、夕暮れが近づいているというのに明かりが灯っているところは少なかった。
港の水面と道路の高さにほんの数センチしか差がなくて、満潮や台風の時は住宅地に海水が溢れるだろう。地盤沈下が海沿いのあらゆるところに広がっていることが想像できた。
ホテルのお風呂は見晴らしがよく、お湯はしょっぱかった。ミネラル?肌がツルツルになった…ような気がする。
夕食は港のそばの「おさかな市場」。以前ニュースなどで何もなくなったこの場所を映していたが、今は震災前ほどではないもののお土産の品が揃い、食事もできるようになっている。
海鮮丼に乗っていたのは、マグロ赤身、中落ち、イクラ。ふのりのお味噌汁も美味しい。
東北って旨いものしかないから好きさ♪



宿泊場所は「住田基地」、ボランティアの基地になっている廃校。
山奥にぽつんとあるその場所に、多くのボランティアが寝起きしている。かつて校庭だった場所に、テントやトレーラーハウスで生活している長期ボランティアの方々が泊まり、短期の私たちは体育館をお借りする。
真っ暗な中、小さな明かりが灯ったそこは、なんだか象徴的だなと思った。
この宿泊地とボランティアセンターの処理能力があって、全国からボランティアが集まってくるんだろう。
歯を磨いている流しの上にある網戸には、茶色い大きな蛾が模様のように張り付いている。都会で見るほどには気持ち悪くないのが不思議だ。
口を濯ぐ水の冷たさと美味しさに驚いて、ゴクゴク飲んじゃった。そうだよ水って本来こういう味なんだよと思いながら。
杉を薄く削って作ったウチワがあるというので事務室に行ってみると、そこではボランティア事務の人たちがホルモン焼を食べていた。
「嫌いじゃなければどうぞ」ホルモン焼キターーー!
白くて柔らかくて、まじ美味しかったっす。
気さくに応対していただいて、ありがとうございました。
そしてまた歯を磨くことにwww



22時には消灯になる。非常口の明かりが思ったより明るくて、もし夜中にトイレに行きたくなっても足下に不安のない感じ。
寝袋にくるまって寝ようとしたけど、黒くて細長い虫とガガンボみたいな足の長い虫に邪魔されたらもう眠気が飛んでしまった。
あちこちのイビキを聞きながら、今日あったことを一つ一つ思い出してみる。
作業の合間に、G長にことわって入り江に降りてみた。波が長靴越しに冷たくて、遠くまで凪いでいて、でもすぐ側には私の背丈より大きな堤防の一部が転がっていて。
あれこれ混乱する。それが現実ということに更に混乱する。
普通に暮らすというそれだけのことが、どれだけの要因で支えられているんだろう。
小さな余震が一度あった。311以降、実際に揺れる前の超微動?のようなものも感じるようになった。この時も「来る」と予感してから揺れた。
結局、深夜1時前後にやっと就寝。



朝は周りのザワザワした様子で6時ぐらいに起きた。
コンビニで買っておいた朝食を食べて、2日目の作業に出かける。
ボランティアセンターの人が注意伝達のためにバスに乗ってくる。
女性が実家の両親を救おうと車で向かっていて全員巻き込まれた話。逆に、嫁さんが婆ちゃんをおぶって逃げていたものの津波に追いつかれそうになって婆ちゃんを置いて一人で逃げて生き残った話。
「悔いは残ります。絶対に残ります。でももし津波が来たらそうしてください。"津波てんでんこ"です」
緊急時において、正しい判断はかく難しい。置いていった者と置いていかれた者の視界や気持ちを想像し、その厳しさに涙する。簡単に涙してしまう自分がどうしようもなく悔しい。



前日と同じ場所で同じ作業。もうひとがんばり。
昨日の作業で左膝がちょっと痛かったけど、一晩寝たら治ってた。足場が泥だからひねりやすいのかも。
昨日よりも今日のほうが油断というか、気持ちが緩くなっているのを感じる。熱中症にも怪我にも本当に気をつけないと。
誰かがトロフィーを見つけてた。本人に渡るといいな。



今日は正午で作業終了。グラウンドぐらいの土地が昨日とは大違い。上から見下ろすと、気持ちがいいぐらい。カメラでビフォーアフターを撮ってる人がいた。
まだまだ人の手の必要な部分が無数に残っていると感じる。



ばさまが家から降りてきて、またお礼を言ってくれた。
こちらこそ、ありがとうございます。日常の仕事でお礼なんて言われることないからなんだかくすぐったいです。お礼を言われたくてやってる訳でもないけど、充実した二日間でした。
ばさまは麦わら帽子と口元で留める日焼け止めカバー、厚手の割烹着に長靴という畑仕事最強仕様。私なんかよりずっとカクシャクとしている。
どうぞいつまでもお元気で。



バスの中で仕出し弁当のお昼を食べる。
ちょうど、陸前高田市の平野を走る時分で、景色を見ながら食べるような格好になり、どうも食欲が出ない。
寝不足とバスの揺れで胃が少しおかしくなっていることもあり、あまり食べられなかった。申し訳ない。
8月にもボランティアで訪れた人が見たところ、一ヶ月でガレキの量が半分ほどになっている印象らしい。撤去は急ピッチで行われているようだが、これで半分?
あちこちで動いているブルドーザーやトラックが、ガレキの量と比べると圧倒的に小さすぎて力が抜ける。
しかも、メディアにも載らない小さな町や村などはガレキの撤去もずっと遅れているんだろうなと思う。
もうすぐ冬が来る。その前にもう一度ぐらいはボランティアに参加したい。



昨日とは別の気仙沼のホテルで入浴させていただく。高台から見下ろす海がキラキラ光ってた。あの黒い舌のような海はいったいどこから来たんだろう。何もかもが分からない。少しでも理解したくてここに来たのに、分からないことが更に増えた気さえする。
あとは、バスに揺られながらうつらうつらしていた。途中で寄った道の駅では安くて美味しそうな野菜や果物が並んでたけど、眠気と疲れで頭がぼーっとしていて何を買ったらいいのかわからなくなってた。
夜になり、福島のPAでソフトクリームを買った。バニラと巨峰のミックス。カップは大きめのワッフルで、中身みっしり。ずしっとくる重さ。美味しくて、ちょっと目が覚めた。



落ち着いた気持ちで、Yさんからいただいた袋を開けてみる。
陸前高田市の風景が写ったポストカード集があった。海辺の白い波、夕暮れの街、花火、動く七夕祭り、海水浴場などの後、一番最後に「希望の一本松」の写真があった。
そこで初めて、このポストカード集が震災後にセットされたものだと気づいた。
どれだけの空虚と絶望と強い希望がこの中にあるのか。
この半年、復興のための何がどれだけ進んでいるのかははっきり見えてこないけど、きっとほんの少しずつ前に歩んでいると信じる。
消防署のポスターだったか「人間を救えるのは、人間だけだ」というコピーがとても好きだ。
「希望の一本松」の立っている土壌は決して良くはない。塩や油や地盤沈下、松自身も海水にまみれて瀕死の状態だと聞いた。
たとえこの松が倒れたとしても、物心両面で支えられるのは周りの人の力だ。希望を形作れるのも、人の力だ。
人の立場になって考える、なんてとてもできない。そんなのおこがましすぎる。
でも、助けて感謝されることによってこちらも助けられている、そんなシンプルな親切心が、人との繋がりや信頼する力を強くするんだと思う。



自宅に戻ってきた次の日の月曜日、左手首に激しい痒みを伴うただれができた。無意識に爪をたてて掻いていて気づいた。その次の火曜日にはただれはほとんどひいていたが、今度は右手首が同じようになった。
長袖にゴム軍手だったので、作業をしている時の隙間はなかったのだが、どうやら休憩の軍手着脱時に泥が少し手首についたらしい。それしか思い当たる原因がない。
あの土地は、強い肥料や塩などが一体となって、死んだ泥になってるのかもしれない。虫やミミズも住めないような。ゴミを掘り出すにつれて泥の臭いがキツくなっていったのを思い出す。ヘドロだらけのドブ川のような臭いだった。
これからは見えるところの修復よりも、見えないところの修復が大変になってくるかもしれない。
陸前高田市という土地が、新しい故郷になったような気がほんの少し、しているので、ボランティアに行く前より真剣に復興を祈るようになっている。
そんな土地が、都会の人たちみんなにできたらいいなと思う。



スポンサーサイト

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。