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「象」新国立劇場・小劇場(2010年3月)

「象」新国立劇場・小劇場(2010年3月)

作:別役実 演出:深津篤史 出演:稲垣吾郎、大杉漣ほか


「象」というタイトルと、いくつかの前情報から連想したもの。
・ネパールで乗った象。皮膚は硬くザラザラしていて、頭にはぽわぽわとした毛がまばらに生えていた。野生のサイが避けて通るのは象だけだと言われた。そういえば、象使いは黒いコウモリ傘を持っていた。日差しが強くなった時用に。閉じたコウモリ傘の先が象の頭頂部にめりこんで、しわが集中線みたいになっていたけど、象はなんにも感じていなかった。
・祖父と祖母、次に父と母、やがて自分、の皮膚。小じわが増えたり、水を弾かなくなっていることに気がついた。
・クラスメートの膝と肘にあったケロイド。小さい頃、やかんの熱湯を浴びたのだと言っていた。それらは確かにピカピカと光ってヒキツレていた。
・盲人と象のたとえ。一匹の象の鼻に触った盲人は「へび」と言い、耳に触った盲人は「ウチワ」と言い、足に触った盲人は「木の幹」と言い、胴に触った盲人は「壁」と言い、尻尾に触った盲人は「ロープ」と言い、牙に触った盲人は「槍」と言って、お互いに譲らなかった。
・象は死ぬまで大きくなり続ける。

この舞台の風景を初めて見た時、心をよぎったのはまず、「新世紀エヴァンゲリオン」(テレビシリーズ)最終回。
舞台にところ狭しと広げられた色とりどりの服と、ほぼ中央に置かれた一台のベッドが、碇シンジの精神世界とクロスした。セリが舞台三箇所からすーっとせり上がってきて人物が現れるのも、その印象を強くしている。
そしてもうひとつ。
これは一回目の舞台を観終えて、ずっと心に何かが引っかかっていたのが、しばらくしてから「ああ、あれだったのか」と納得した。以前、ネットで見た一枚の写真。
半透明なチューブのような場所を横から撮った写真で、半透明な部分の一部が破れ、その外側の細い部分にやっと立っている浴衣姿の女性、内側には服の山が覗いている。その異様さに忘れられなくなる写真だった。
本当かどうかわからないが、明石花火大会歩道橋事故の写真だとキャプションが付いていた。
それは本当に"服の山"としか見えなかった。人の手も足も顔も見えず、ただ特売のワゴンのように積み上げられた服が、天井近くまで達していた。

ライトが点くと、ゆうらりと黒いコウモリ傘を持った男が現れ、稲垣の澄んだ声が流れ出す。澱んだ舞台に、生気が灯る。
たいして大きいとは思えないのに、客席の隅々にまで染み渡っていくような声。この人はいつの間に、こんな声を手に入れたのだろうか。
「こっちから、こっちへ」本当に、まるでそこだけ風が吹いているような。

原作を初めて読んだ時、そのあまりの難解さに、不本意ながら三回も中断して寝てしまった。
だから、これは言葉の意味よりも、言葉の音に注目したほうがいいのではないかと思った。
スポークン・ワーズを紐解くのは初めてではない。目で読むよりも声を聞くほうが、更に自分で声に出したほうが心地いい文章というのは確かに存在する。
言葉の音、意味、抑揚、リズム、そして役者の声と身体と空間がひとつになってはじめて伝わる芝居が「象」なんだと思う。

見えないけれども、現実に恐ろしいもの。いくら逃げても最後には必ず捕らわれるもの。
"老い"と"死"。
他人の手(原爆)で、自分の命に時限爆弾がセットされているというのは、どんな気持ちなんだろう。
老いによってスイッチが押され、発症する。それは鼻血から始まる。
ケロイドならば見えていた。だから、その傷によって、他人と、町と、社会と、繋がっていることができた。たとえ拒否や同情や無視であったとしても。
おまけに病人には妻もいた。同じ原爆という苦しみを乗り越えた甥もいた。それは彼のポジティブさの源になったはずだ。外の世界に向かって開いていた気持ちは、原水爆禁止大会でピークを迎え、今、彼は病院にいる。
どうしようもなく筋力が落ちていく足、混濁する記憶、低下し続ける内臓機能、壊れかけた鼓膜は無意味なささやき声を拾い上げる。
それでも日常は続く。

友人の栄養士が言っていた。
口で咀嚼して、味わって、胃で消化して、腸で吸収して出す。その一連の流れはとっても大事。高齢者が嚥下できなくなったからといって、チューブで直接胃に注ぎ込んだり点滴で入れたりする段階になると、栄養価もカロリーも計算上充分だし、むしろ吸収率は高くなってるはずなのに、死期が早まることがある。
理由ははっきりしないけど、気力ってすごく大事だと思うんだよね。

細胞の牢獄にわたしたちは住んでいて、死は誰にでも平等に訪れるものではあるけれど、その手前の身体の不調を一人で抱えて日常を送るというのは、とてもシンドイに違いない。
病院を出て「あの町に行く」という希望でも持たなければ、やってられないんだろう。
なんて冷静に分析するわたしの気持ちに一番近いのは、せいぜい健常者の医者ぐらいだ。言葉を言葉通りに受け取る道化者。浅ーーい言葉がすり抜ける。
健康で、楽天的で、寛容なふりをしている。つまり、病人からみて、必要だけど微妙に不愉快なやつ。
でも、それが現実。
あまりにも死が恐ろしいので、とりあえず心にフタをして、1日ならば1日ぶん、1年ならば1年ぶん、誰もが汚く、老いていく。

他人との距離がうまく計れない通行人1に絡まれまくる通行人2も、少しだけ似ているかもしれない。
ある日何気なく、偶然すれ違ってちょっと呼び止めただけなのに、そこから派生した結果で苦しみ続けることもある。
通行人1の言うとおり、相手のなにもかもをわかってしまうなんて無理なこと。何度も何度も心に言い聞かせ、今度こそ信じないでいようと思うのに、また性懲りも無く"わかりあえる"と望んでしまう。
他人と接することは、不確かなものだと知っているのに。
親切ぶった厚かましさと、親しさの裏にある恐怖。
うまく表面を取り繕えないことから広がっていく疑惑。
やられる前にやることの正当性と殺意。
ことの善悪や気持ちとは関係なく、どんどんすれ違い離れていく。
違う生い立ち、違う世代、違う意識、違う文化…戦争の始まりなんて、けっこうこんなもんなのかもしれない。

わたしは今回の舞台を、約一週間おきに三回観劇することができた。
初回よりも二回目、二回目よりも三回目、稲垣と大杉の理解度が増していることに驚かされる。
最初は戸惑いがあって、大杉はアドリブを入れようとして、稲垣は芝居に向き合おうとして、お互いにいささか違う方向を見ているようだったのが、二回目に見た時は少し変わっていた。
その回は、以前にも増して大杉のアドリブが炸裂しており、わたしとしてはやや鼻白んでもいたのだが、そのパワフルな大杉をたしなめる稲垣が、以前よりもごく自然に役を掴み、腰を据えてかかっているようで、それはもうがっぷり四つといってもいいほどの安定した闘いぶりだった。
彼の意識からは"芝居に向き合う"なんて、とっくにどっかに飛んでいってるみたいに見えた。

原作のラストは、病人の死体がリヤカーに乗って運ばれていくのだが、今回は違っていた。
舞台でのラストを見た時、一回目は混乱と絶望しかなかった箇所で、二回目からは違うものを感じた。
まるでそれこそ小さな希望のようなものが、不完全ながらも立ち昇ってきた気がしたのだ。
病人のパワフルで計画的な意識が、今までずっとネガティブな引きこもりだった甥にちょっぴり乗り移ったかのような、これから甥はどちらの道を選ぶのだろうと思わせるようなラストだった。

病人にとって甥は「もうすこし話をしようよ」とねだる相手ではあったが、必ずしも必要ではなかった。気まぐれで緩慢な死よりも、自分でコントロールできる死を、自分で選べるほどに。
しかし、甥にとって病人は必要な存在であったことに、いなくなってから彼は気づいたのではないか。自らの潔癖性と閉塞性によって反発しながらも、甥にとって病人は「希望」そのものだったのかもしれない。
役者としての稲垣のいいところのひとつは、原作や監督や演出や脚本の意図を超えて、観ている者にその役を少しだけ明るく強く感じさせることだと、わたしは常々思っている。
でも、その部分は特別なことでもないのかもしれない。
老い&死とのゲーム終了まで、嫌なことを忘れたり忘れたふりをしたりして、虚実併せ持ったこの世界でも明るく強く生きていける力の萌芽は、意外に誰もが持っていると思うので。
もしかしたら、自分も含めた観客みんなの持つ強さやしなやかさと、彼の特長が共振しているだけかもしれないので。

あ、なんかうまくエヴァと繋がった?

拍手と雨の音は似ている。
自分と他者の、嘘も怒りも誤解も許容するような、優しさを含んでいる。

広島・長崎から65年、ビキニ環礁から56年、遠い現実としてしか感じられなくなった現在に、どうして「象」を上演するのだろう。
死や病といった、日常を壊す要素は普遍だから?
忘れてはいけない事実を、今に伝えるため?
他人との繋がりを恐れすぎている若者が増えたから?
闘いのきっかけはいつも人の心にあって、決してわかりあうことなどないから?
なにかどうも、しっくりこない。
自分の中のどんな感想もどんなヒラメキも、この舞台のほんの一部分にしかすぎないように感じる。
まるで象を撫でている盲人のようだ。
わたしはこれからもっともっと、考え続けるだろう。
稲垣が最後に示した焦がれるような熱情と、看護婦役の奥菜恵が残したセリフ「きっと、また生むのよ」の底冷えするような声音が、頭に引っかかりまくってしばらく離れそうにない。



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